ばんちゃんの読書日記~新書・文庫篇~

読んだ本の感想や勉強になったことをメモするための読書日記です。

破滅に向かって 『卍(まんじ)』を読む。

依存を克服するのは難しい。私の場合、ちょっとしたアルコール依存症だったのではないか。無論、医者にかかったことはないのだが。一時期、毎日後輩と飲み歩くことがあった。遅いときには朝方5時くらいまで。最後のほうは意識があまりなく、ベッドに倒れ込み、出勤までの2時間くらい寝て、シャワーを浴びたり、コーヒーを飲んだり、香水をふったりして、抜けたか抜けなかったわからないアルコールの臭いを取り除き、青白い顔で会社に向かった。

 

さすがに身が持たないし、堕落していく意識があって、何度もやめようと思ったのだが、意識下ではまた酒を飲みたいとの欲望が渦巻いていた。そんなとき、言い訳に使ったのが一緒に飲む後輩だ。彼に誘われたら断れない、彼の悩みを聞いてあげることで「自分はいいことをしている」と言い聞かせて、約1年、平日はほぼ毎日、夜中まで飲み続けた。彼が何を考え、私を酒に誘い、へべれけになるまで飲み続けたのか、それはわからない。幸い、彼が異動し、破滅への道を逃れられた。健康診断でも異常は発見されなかった。久々にその後輩から連絡が来たので、依存について考えてしまった。

 

私の場合、環境が変われば自分の意思でやめることができたが、本物の依存症患者はそれもできないくらい、依存の対象物がなくなったら生きていけなくなるそうだ。

 

谷崎潤一郎の『卍』を久しぶりに読んだが、女性同士の恋愛と、一人の女性をめぐる男女の交錯する思惑を依存という角度から読めてしまった。

 

ノート:あらすじ

弁護士・柿内孝太郎を夫に持つ園子は、自身が通う芸術学校で美しい美貌を持つ徳光光子と恋に落ちる。夫婦関係を続けながら、園子は光子と関係を持つようになる。一方、光子も園子との同性関係を持ちながら、綿貫という男とも付き合っていた。

 

その事実がわかったときから、光子をめぐって園子と綿貫は激しく互いに嫉妬し、対立を深めていく。光子は綿貫が性的不能であることから別れようと、園子を利用して「同性愛者」であるフリをしたり、「妊娠で苦しんでいる」と芝居を打ったりして、園子を巻き込んでいく。

 

園子は光子に利用されているだけかもしれないと、疑心暗鬼になりながらも、それを口実に、光子が頼れるのは自分だけという意識をもって、綿貫を駆逐しようとする。綿貫も同様に、光子の画策を恐れながらも、園子を陥れ、光子を自分のものにしようとする。

 

綿貫が仕掛けた罠にはまってしまったとき、園子と光子は二人の関係を守るために”自殺未遂”という芝居を打つ。しかし、一緒に飲んだはずの薬が自分にだけ効いていたこと、そして彼女が昏睡している間、夫である柿内孝太郎と光子が関係を持ったことを、園子は知る。光子への疑念が膨らみながらも、なお光子から離れたくないと思うようになる。

 

孝太郎が光子との関係に入ってきたことにより、綿貫が離脱し、柿内夫婦と光子の三角関係が始まる。しかし、この一部始終が新聞に出回ってしまった。それを受けやむなく3人で自殺を図ろうとする。しかし、園子だけが生き残った。生き残った園子は、光子と夫・孝太郎が自分を欺いて一緒に死んでいったと思い込み、悔しさをもって生きていくことになった。

 

感想 

自分は駄目になる。この人といたら利用されるだけ。それはわかっていながらも、結局それを言い訳に自ら破滅の道に進んでいく。そこまでいくと依存というより、中毒だ。人間とは実に弱い生き物だ。特に、人との関係は相手の心の内を知る術はない。真実はどうであろうと関係ない。思い込んだらそれが真実だ。本当に、光子と孝太郎は画策して園子だけ助かるように仕向けたのか。自殺未遂を演じたとき、本当に光子は園子を殺そうとしたのか。そうだと言えばそうだし。そうでないと言えばそうではない。

 

光子という女の傍若無人ぶりが半端じゃない。特に、柿内夫婦との三角関係になってからはわがままし放題だ。わかっていながらも、気にせずにはいられない、愛さずにはいられない。そんな魅力があるのだろう。弁護士が理性を失うくらいだ。何かにハマることは恐ろしい。

 

後輩から、久しぶりに飲みに行きましょうと誘われた。お酒で酔っ払うと気持ちがいい。でも私は彼に溺れているわけではない。こんな小説みたいになるのはまっぴらだ。思い詰めるほどのことではないが、この小説を読んで後味が悪かった。今回は忙しいと言って断っておこう。

 

卍 (新潮文庫)
卍 (新潮文庫)
posted with amazlet at 16.10.16
谷崎 潤一郎
新潮社

あるフランス人学者の予言『問題は英国ではない、EUなのだ』を読む。

本屋を覗いたらエマニュエル・トッドの本がやたらと目についた。トッドと言えば、大学のゼミでは彼の著書『移民の運命』と『デモクラシー以後』にお世話になった。正直、おバカな大学生活を送っていたので、内容までしっかり覚えていない。ただ、行き過ぎた資本主義に反対して、国家の利益を優先させるべきだという論調だったのはなんとなく記憶に残っている。

 

イギリスがEUから離脱して数ヶ月、書店にはEU危機なる本がズラリと並ぶ中、そうした縁からこの一冊を買うことにした。多くの識者やビジネス関係者は、この脱退はイギリスの失敗と見ているが、トッドの見解は異なる。イギリスの英断を褒め称えている。当事者であるフランス人学者の意見が気になった。

 

ノート1:イギリスのEU離脱が意味すること

イギリスのEU脱退は歴史の必然であり、歓迎すべきことだ。これはグローバリゼーションの終焉の始まりを意味すると予言している。自由主義経済を牽引してきたイギリスは、主権国家への回帰を図ったと見るべきである。グローバル企業・インターネットビジネス・EUなど超国家的な行動によって、イギリス国民がコントロールできない事案が増えすぎた。今回の離脱は、もう一度主権を自分たちの手に取り戻そうという意思表示だ。EUという組織ではなく、イギリスのことはイギリスで決めたい。そういうメッセージだった。

 

ヨーロッパといえば、経済を牽引するドイツが推し進める緊縮財政で、EU各国が疲弊している状況だ。少子高齢化が深刻なドイツは大量の移民が欲しい。失業率の高いEU各国の若者をドイツに呼び込み、また中東からの難民までを呼び込み、安価な労働力としてものづくり大国の威信を保ち、自国の輸出戦略に利用している。こうした状況で、各国の人口や経済力はドイツに吸収される。脱退する頃にはすでに、国家としての体裁はない。

 

ノート2:グローバリゼーションの限界

文化人類学的な視点から見たとき、現在の経済自由主義パラドックスに陥っている。個人主義の発展は、本来、家族や古いコミュニティからの脱却が目的だった。しかし、結局、過激な競争主義・資本主義の結果、個人の最後の頼りは家族しかなくなってしまった。だから、トマ・ピケティ(『21世紀の資本』)が指摘するような、富の尺度=家族の資産になってしまい、貧富の差が広がっていくのだ。経済自由主義国民国家が前提にある。この国民国家の機能が弱まれば弱まるほど、個人は最終的に家族にしか頼るところがなくなるのである。グローバリゼーションではセーフガードとしての国家の役割が大きい。それに、グローバリゼーションの牽引役であったアングロサクソンの国々(イギリスやアメリカ)が気づき始めたと言える。

 

ノート3:EU崩壊の責任

現在の状況(ここでは主にドイツ帝国と化したEUについて)をもたらした元凶は、エリート階級にある。一般市民を見下し、自分たちの判断が正しいという傲慢な態度によって、エリート達は思考停止に陥っている。一般市民のニーズや要求を読み取れない政治家や官僚が、国家(ここでは特にフランス)を悪い方向へ導いている。EUを脱退したイギリスには、市民のニーズを汲み取って改革を図れるエリートがいることが強みであり、脱退後も不安はないだろう。

 

また、政治家や官僚を動かす民衆側にもパワーが欠けている。フランス革命明治維新、悪くはナチスドイツなど、歴史を作ってきたのは各国の中産階級である。現代の中産階級は「1%の超富裕層の存在を許し、低所得者層の生活水準の低下を放置している。(p.104)」こうした状況では、世の中を変えることは難しいだろう。

 

ノート4:これからの世界情勢

人口学、歴史学、人類学の視点から分析した結果、サッチャーレーガン時代から続いた経済自由主義は収束し、国家の役割が再評価される。国家の安定が今後のキーワードになる。安定化する国は、アメリカとロシア。不安定なのはヨーロッパと中国。中東では、スンニ派サウジアラビアとトルコが不安定要因で、安定化するのはシーア派のイランである。日本が今後、どの国との関係を重視するかを考える指標となるだろう。

 

 

感想

グローバル経済、ヨーロッパ情勢などの本はたくさんあるが、トッドの主張は強く印象に残る。特に日本人が書く国際情勢の本は、正直どれも似たり寄ったりなのだ。なぜだろうか。それはきっと、物事を語るときに自分の切り口を持っているからだ。

 

彼は他の著者と違って、経済や政治の問題を歴史人口学・文化人類学から分析できる。しかも観念のようなものではなく、科学的なアプローチで実証していくスタンスだ。学者はこうでなくてはと、思わずうなってしまう。切り口が違うだけで、同じ結論でも頭に入ってくる。受け売りの知識(他の同じような著書やデータを活用する)ではなく、自分の仮説と検証によってもたらされた成果だからだ。

 

自分の主張をはっきりさせるという文化で育ったフランス人だからできる荒技なのか。自分の武器を磨くことは、他の分野でも活きるようだ。何か新しい課題に直面するとき「これは自分の知らない分野だ」と、躊躇してしまう自分がいる。未知の分野を勉強することは大切だが、自分の持ち札をその分野にどう応用できるかのほうがよっぽど大事だと痛感した。フランスの知識人はやはりすごい。

 

 

名探偵の頭脳が欲しい 『シャーロック・ホームズの思考術』を読む。

新しい『相棒』シリーズが始まる。今年で15年目だそうだ。去年から反町隆史が出演している。『ビーチボーイズ』世代の私としては、反町が相棒になったことで俄然、毎週欠かさず見るようになった。今回の役では、歳を重ねた大人カッコイイ感じと、『GTO』の鬼塚を演じていた時のおちゃらけた感じが絶妙で、はまっていると思う。

 

とはいえ、『相棒』の見所は、天才にして変人、和製シャーロック・ホームズの異名を持つ杉下右京だ。抜群の推理力で難事件を次々に解決していくのがドラマの醍醐味だ。私も、毎回犯人を推理するのだが、キャスト、役どころ、登場シーンなど、本筋とは別の角度から推理して勝率は3割だ。少々卑怯な気もするが、当たっていたらドヤ顔で奥さんに「すごいだろ」と自慢してみる。的外れな推理に彼女は閉口して、見終わるやいなや、静かに子どもの眠る部屋へ去って行くのであった。

 

子どもの頃、探偵に憧れていた。どうしたらシャーロック・ホームズみたいになれるのかと。どうやったら、ちょっと話しただけで人の嘘を見破れるのか。いかにして見た目だけで、ワトソン君がアフガニスタンから帰還した軍医だとわかるのか。彼の洞察力や推理力を自分も欲しいと思っていた。格好良さに憧れた子どもの、ある種の願望だと思っていたが、どうやら違うようだ。今でも『相棒』を食い入るように見ている。推理小説も好んで読む。ないものねだりは人の性。頭脳明晰な人間になりたい。格好良いからではない。自分が抱える課題を解決したいからだ。ホームズのように視点を変えられたら。杉下右京のようにその人の性格を見破られたら。

 

私と同じ願望を抱いている人間はいるもので、著者もその一人だろう。ジャーナリストである彼女の著書は、脳科学や心理学の理論・研究をベースに、『シャーロック・ホームズ』でのホームズの推理手法を詳しく分析している。様々なシーンを例に取りながら、ホームズの思考回路を紐解いていく。

 

ノート1:ホームズとワトソンの違い

相棒のワトソンの思考をワトソン・システム。ホームズの思考をホームズ・システムと名付ける。別にワトソン・システムが全く駄目だと言っているわけではない。本来、一般的に備わっている脳の働きの結果であり、落胆は不要だ。

 

【ホームズ・システム】

  1. 注意力があり、意識しながら観察する。
  2. よく考えてから行動や発言をする。
  3. 事実と解釈を区別できる。
  4. 頭の中の知識や体験を整理していて、必要な情報を必要な場面で選択できる。
  5. バイアスがかかることを理解し、意図的にバイアスを取り除いている。
  6. できるだけ中立の視点から物事を見る。
  7. 一つのことのみに集中する。
  8. 論拠を積み重ねて真実にたどり着く。

 

ワトソン・システム】

  1. 漫然と見ているだけ。
  2. 瞬時に答えを出そうとする。
  3. 事実と解釈がごちゃまぜになっている。
  4. 知識や体験が整理されていないので、欲しい情報を選択できない。
  5. 認知バイアスに陥っていて、簡単に結論に飛びつく。
  6. 完全に主観で物事を見ている。
  7. あらゆることに注意を払って、結局何にも注意を払えていない。
  8. ストーリーありきで、それにふさわしい論拠を探す。

 

ノート2:ホームズ・システムを作るには?

【ステップ1】自分を知る:自分の目的・目標を確認し、書き留める。

【ステップ2】観察する:目的をもって注意深く、思慮深く見る。

【ステップ3】想像する:様々な可能性を頭の中でめぐらせ熟考する。

【ステップ4】推理する:観察したものから可能性を出し、もっともありそうなものを選ぶ。

【ステップ5】学習する:このプロセスを繰り返し試す。

 

ワトソン・システムに陥っている人は、日記やライフログを書くと良い。習慣的に同じ行動、思考をしているかがわかる。また、他人からのフィードバックも大切だ。自分の思い込みが間違っていることを、自分で指摘することは不可能だ。だから議論や共有が必要なのだ。

 

なぜ普通の人はワトソン・システムなのか。それは、すべての事を深く考えて行動することが脳や体に悪い影響を及ぼすからだ。考えすぎることは日常生活では不便だ。そして疲れる。だから経験や知識をもとにオートマティックに行動したり、考えたりする脳の働きが発達したのだそうだ。だから、ワトソン・システムが完全になくなることはない。なくなっては困るのだ。

 

ホームズ脳が必要なのは、大きな問題に直面したときだ。ビジネスでも、人間関係でも、問題は尽きることはない。そんな時こそ、思慮深く落ち着いて解決したい。正しい推理のもと、正しい判断を下すには、ホームズ・システムが欠かせない。

 

自己診断したところ、私にはまるっきりホームズ・システムが欠けている。これだけ推理小説を読んでいるにもかかわらず、完全なワトソン型とは自分の学習能力のなさに嫌気がさす。

 

ライフログを作り、習慣的な自分のクセを把握する。

・集中して一つの事に取り組む。

・取り組む前に、目的や目標を紙に書く。

・自分の意見を絶対視しない。他人の意見も聞く。

 

このあたりから始めるのがよかろう。最初から、観察・想像のステップはハードルが高い。

 

著者も言うように、何よりも「意識して考える」ことが大切だ。しかもモチベーションを持って。今シーズンの『相棒』こそは、ドラマの本筋から犯人を当てたいものである。それをモチベーションにして、もう一度、ホームズ・システムに挑戦してみよう。

 

 

相互理解の難しさ『日本と中国』を読む。

また友人が中国人の文句を言っている。なんでも、並んでいたレジに割り込んできたという。しかも、うるさいくらい大声でしゃべっている。「だから中国人は」は彼の口癖だ。中国人の人口は10億人以上。世界の人口が70億人くらいだから、7人に1人は中国人だ。

 

思えば海外旅行に行ったらどの国でもチャイナタウンはある。彼らには地の果てでも生きていける精神力と活力がある、といつも感心する。「否が応でも彼らとは付き合っていくのだよ」と友人を諭したところで、聞く耳なんか持たない。「このままでは中国人に支配される。いっそ日本は島ごと流されて中国から離れて、アメリカ大陸に近づかないかな」などと妄言を吐くのである。

 

日本と中国。世界をみても漢字を使うのはこの2カ国だけ。しかも日本は中国文化の影響を受けてきた。それなのに、お互いに嫌っているのが現状だ。書店に行けば、友人が喜びそうなタイトルの本が並んでいる。一方の中国も、反日運動の過激ぶりは恐怖すら覚える。私は別段、中国人に対して嫌悪感もないし、海外旅行などで現地の人に話しかけられたらチャイニーズと言って、中国人の名を借りているくらいだ。友人の発言から、一番近そうで遠い国、中国について気になった。

 

『日本と中国』は中国人の日本研究者が書いた日本論だ。日本人の書く日中関係の本は何冊か読んだが、中国人からみた日中関係とはどんなものなのか。

 

ノート1:誤解の構造

「同文同種」(同じ文字を使っているから、同じ人種だという考え)のはずの中国と日本がなぜこうも理解し合えないのか。ある思い込みが日本人と中国人の根底にある。日本人は、「中国文明から大きな影響を受けた国として、中国人の文化・伝統をわかっている」つもりだ。中国人は「もともと日本は中国文化に影響を受けてきた国だから、中国の亜流とみてよいだろう」と思っている。こうした思い込みをなくすために、改めて日本人は中国文化を、中国人は日本文化を学ぶ必要がある。

 

ノート2:日本研究者からみた日本人

同じ漢字を使う国民であるにもかかわらず、それで意思疎通は図れない。日本人は中国から輸入した漢字を独自にカスタマイズし、新しい概念や言葉を次々に生み出してきた。


日本人は漢字の他に平仮名、カタカナを使う。しかも文法もまったく異なる。中国語は文法が英語に近い。主語・述語の表現が多様で、自分の立ち位置によって使い分ける繊細さと、主語をなくしたり、述語をぼかしたりする曖昧さも中国語にはない。


日本人には正義と悪の二元論が通じない。悪には悪の理屈もあり、日本人はそこに一定の理解を示す。そうした姿勢は、二元論を中心に物事を考える中国人、西洋人には理解できない。


日本人は主張しない。大事なことほど話さない。「空気を読む」という言葉があるように周囲との摩擦を避ける傾向が強い。阿吽の呼吸は、日本人同士だけが通じる不思議なコミュニケーションである。


日本人は自然と一体であり、西洋や中国のような人間中心の考えからは距離を置く。だからこそ季節や自然美に対する感性が鋭く、「わび・さび」の感覚が生まれる。

 

日本文化が独自の発展を遂げたのには、その地理的な位置も関係している。日本は世界的にみても周縁国家である。洋の東西を問わず、積極的に文化を輸入し吸収してきた。極東の隅っこ位置することで、他国からの干渉にもあわなかったことから独自のペースで文化を創りそれを保ってきたのである。

 

 

親日派の先生だけあって、日本人の性格をとてもポジティブに書いてくれている。こうした洞察は自身の日本での体験を通して養われたのだろう。日本にいればいるほど、中国とはまったく異なる文化に衝撃を受けるそうだ。やはり互いの文化を知るには現地で生活するのが一番良さそうだ。

 

日本に来ている中国人を観察して、「まったく中国人は」と言っている友人も友人だが、共産党主導の中国政府の海洋進出をもって「中国人はヤバい」と言っているのもまた問題だろう。あんまりお互いの事を知りもしないで、あれこれ言っているのは食わず嫌いみたいなものだ。著者も書いているように、嫌いなら嫌いで結構、でも相手を知ることは必要だ。友人にはぜひ北京大学にでも留学してもらいたい。

 

 

 

モノが売れない時代への対応策『売る力』を読む。

仕事帰りに必ずセブン・イレブンに立ち寄る。目的があって入る場合もあるが、ほとんどはふらっと立ち寄るのだ。何も買わない日もある。

 

少し雑誌を読んで、飲み物を眺め、たまに発泡酒をとり、弁当コーナーへ向かう。新商品が出ていると、ついついそれを買ってしまう。コンビニ弁当は塩分が多いから控えなさいと言われたのは、ずいぶん昔のような気がする。健康志向の商品が増えたおかげで、「家ですっからかんの冷蔵庫から何か作るより、コンビニのサラダ買った方が健康的だ」と開き直れるようになった。そして最後に、別腹と言わんばかりにデザートもチョイスする。別にやましいことはないが、一人でぶらぶら立ち寄る罪悪感が脳裏をよぎり、奥さんのスイーツも手にとってしまうのだ。

 

家計が苦しい時は、携帯の料金プランを見直したり、車を使わず自転車で通勤したりしてあれこれ節約をするものの、一向に財政が上向かないのはもしかしてセブン・イレブンのせいなのではと思い始める。今年は、カリスマ経営者である鈴木敏文氏が第一線から退くというニュースがあった。ここまで私をコンビニ依存症の一歩手前まで追い込んだ、彼の経営手法を知りたいと思った。ATMを導入したり、カフェやドーナッツを販売したりと次々と新しいサービスを開発してきた鈴木氏の成功の極意は何なのだろうか。

 

ノート1:消費者の理解

 モノが売れない時代にどうやって、消費者に買ってもらうのか。鈴木氏の答えはこうだ。「お客さまの立場で」あらゆる面から徹底的に追求してサービスを作る。決して妥協しない。鈴木氏は今の消費者の動向や心理を次のように理解している。

 

お客さまにとって「いいものはすぐ飽きる。」毎日、高級料理を食べると普通の食卓のごはんが食べたくなるように、いいものには飽きがくる。言い換えれば、売れる商品こそ飽きられやすいのだ。だから商品の改善は常に必要である。飽きるころに次のヒット商品が出てくるようにサイクルを回す。

 

お客さまは、「本当に欲しいものを知らない。」こういうのがあったらいいなとは思っていてもそれがどう形になるかはわかるわけない。そこは商売のプロ。先回りして、「こんなのあったらいいな」を拾い、商品・サービスにしなければならない。消費者の心理を知るには、売り手は常に消費者でなければいけない。

 

お客さまは「してもらった満足」より、「してもらえなかった不満足」を大きく感じる。いわゆる損失回避の心理である。だから、「欲しい時に売ってない」は一番よくない。いかに満足させるかよりも、不満足を解消してあげられるかに注力する。そのため、セブンイレブンでは挨拶やクリンリネスなど基礎の徹底を行っている。

 

ノート2:売り手の姿勢 

お客さまの心理を理解したら、売り手はどう行動に移すのかが次の段階だ。

 

売り手は、仮説を立てて勝負し、検証をしなければならない。お客さまの生活や行動心理を想像しながら仮説を立てる。データも大事だが、あくまでデータは過去の実績。まずは自分の頭で仮説を立てることからスタートする。

 

売り手は、周囲から反対されたり、協力を断られたりしても実現のためにあらゆる手段を尽くす。なければ自分たちだけでも断行する。行動は徹底して妥協しない。ただし、無謀にならないように7割くらいの勝算があることに集中する。

 

売り手は、お客さまのためにではなく、お客さまの立場でサービスを売る。これは絶対お客さまのためになるはず、というのは売り手のエゴである。「自分がお客さまだったら」を常に考える人の方が売れる。

 

 

カリスマだけあって彼のエピソードもさることながら、登場する他の経営者やデザイナーも凄い。人望の厚さも伝わってくる。セブン・イレブンの成功は組織ではなく鈴木氏の力のようにも感じる。カリスマが去ってこれからどうなっていくことやら。

 

まさか、流通界のドンが一度も売り場を担当したことがなかったとは驚きだ。すべての部署を経験させるとかいうのが日本組織では当たり前のような気もしたのだが、現場を知らない社長っていうのもいるのだ。

 

彼も言っていたが、そうした現場の経験がなかったからこそ、売り手の気持ちよりも、消費者の心理に近い状態でいられたのだろう。業界に染まっていけばいくほど、売り手の人間になって消費者の目線がぼやけてしまう。

 

幸い、私も今経営していることはほとんど素人に近い。ここは一つ、偉大なるカリスマ経営者を気取って、周囲の反対を物ともせず、大きな改革をしてみるか。本書でせっかくいいことを学んだのに、形から入ろうとするお調子者の自分が時々イヤになる。やっぱり権威に弱いのは親譲りなのだろうか。

 

 

権力に踊らされる男『政府はもう嘘をつけない』を読む。

私だってもう30過ぎのいい大人だ。新聞やテレビが伝えているものが、偏ってたり、情報が制限されてたりすることくらいわかっているつもりだ。メディアというのは私たちにかわって情報を選択して要約してわかりやすく伝えるのが役割だから。ただ、どの情報をどれくらい伝えるかという裁量権を誰が持っているのかはわからない。誰に私たちはコントロールされているのだろうか。そう思いながら、人気アイドルグループの解散報道や芸能人の不倫スキャンダルをヤフーニュースでチェックする毎日だ。

 

自分の生活に関わる情報をもっと知りたい。それはいつも思っているが、自分から情報は取りに行かない。内閣府や各省庁のホームページなんぞ訪れたことがない。新聞も取ってはいるものの、毎日読んでいるわけでもない。情報源は朝のニュースと、ヤフーニュースだ。さすがに自堕落すぎると思っても、「きっと権力者によるプロパガンダに違いない。我々一般人の脳内環境を壊して、社会を意のままに動かそうとしているのだ。」などと言い訳をするのだ。

 

さて、『政府はもう嘘をつけない』は、国際ジャーナリスト・堤未果さんの著書だが、アメリカの貧困に関する彼女の本を読んだことがある。ジャーナリストの凄いところはインタビュー力だと思っている。データや文献はもちろん大事だが、当事者の話というのはやっぱり説得力がある。彼女の著書にはいつもインタビューの質と量に驚かされる。ジャーナリズムが根底にあるわけだから、当然、正義感の強い文体だ。正義感の欠片もない私にとっては、読んでいてむずがゆいのも確かだ。

 

ノート1:株式会社国家アメリカ

アメリカ政治の実権を握っているのは1%の富裕層だ。金持ちが政治家に政治資金として投資して、そのリターンとして彼らの望む政策を政府に出してもらう。あるいは、投資家や大企業から人材を政府に派遣して重役ポストに就かせる。もはやアメリカの政治はビジネスになっている。政治さえもマーケットになるくらいにアメリカは株式会社が強い。そして、それを国民はよく知っている。だから、草の根で資金を調達するバーニー・サンダースや、自分の資産だけで選挙運動ができるドナルド・トランプが人気を博すのだ。

 

ノート2:頻発する非常事態宣言は国家権力の強大化のサイン

先進国、発展途上国を問わず、政府が非常事態宣言を出すケースが増えてきている。これは権力の集中につながる悪い流れだ。そういう時は、法を作る人間が一番強くなる。本来ならば立法府は政治家が担うため、悪いことをしたら次の選挙で落選する可能性が高い。しかし、日本は本来、行政府に属する官僚が立法も行っている。官僚は選挙で選ばれていない。それゆえ日本の官僚はものすごい権力を持つことになる。日本でも政府が「緊急事態条項」を導入したがっている。この兆候は少し危険である。官僚の良識回復と政治家の立法能力の向上が急務である。

 

ノート3:国家以外の権力

政府の権力と対をなして、力をもつのが市場経済を牛耳る多国籍企業だ。貿易など国家間での取引で、会社に損失が出た場合、国に対してだって訴訟を起こせる。訴訟を起こせば、ハゲタカ弁護士によるISDS裁判を戦い、勝てば国から賠償金をせびることができる。そうなると、国家はすぐに破綻する危険性がある。また、広告代理店は企業と政府両方に仕えるポジションにいて、プロパガンダで国民・消費者をコントロールしていく。インターネットの普及で膨大な情報にアクセスできるが、アルゴリズムによって個人は情報を探しているようで、さりげなく企業から特定の情報を与えられているのだ。

 

ノート4:真実を見抜く方法

そうした権力に個人が対抗するには、真実を見抜く力が必要だ。流された情報を鵜呑みにすると結局誰が得をして、誰が損をしているのかがわからなくなる。著書は、真実を見抜く3つを提案している。第一に、お金の流れをチェックする。第二に、情報に違和感を感じたら別の情報をあたる。最後に、直観を鈍らせないためにデジタル断食をする。

 

 

「日本人はシンプルアンサーが大好きだ」と言ったのは、このブログでも紹介したデービッド・アトキンソン氏だが、全くもって考えたり、じっくり調べたりすることが苦手な国民なのだろうか。

 

feuillant.hatenablog.com

 

私自身が陥っている病は次の通りだ。情報収集が受け身で、流れてきたものだけを吸収してしまう。ネットだと特に「読む」作業が億劫で、ライブドアニュースのように3行くらいにまとまった文章が好きだ。とにかく結論だけ欲しい。結論以外は読まない。これで読書をしなかったらと思うと恐ろしい。

 

情報収集が受け身なのは、だらだらテレビを見たり、暇さえあればLINEとかやったりしているからだろう。著者が言うように情報を遮断する必要がある。オフラインの時間が増えれば自ずと生活のこと、社会のことを考えるだろう。そうすると、知りたい情報が何なのかがわかってくるはずだ。そしたら、知りたいことをピンポイントで見つけに行く。よけいな雑音に惑わされないかもしれない。

 

そして「読まない病」についても対策を講じなければならない。ビジネスでは特に、短く簡潔に伝えることを良しとする風潮がある。それに慣れてしまうと箇条書きとか図による説明だけを求めてしまう。これも誰かの謀略なのか。このままでは、日本語をまともに読めなくなってしまうのではないか。池上彰の番組のような、本来なら子どもに教える内容が視聴率を稼ぐのだから、すでにその効果が出はじめている。と言うわけで、自分も文章を書くときになるべく箇条書きをやめて、ちゃんとした文章を書くことにしよう。そして読み物もそうだ。やはり文章を読む作業は知性を磨くには必要不可欠。結論だけでなく、その過程こそが書き手の思考がよくわかるのだと思う。

 

といいながら、ヤフーニュースを開いて、「なんだ、今度は歌舞伎役者か!」と不倫スキャンダルを奥さんと二人で笑っている。習慣とは恐ろしいものだ。

 

 

境界意識の低さ 『入門 国境学』を読む。

ロシア経済分野協力担当相なるものが新設された。特定の国だけのための担当大臣というのは珍しい。それだけ安倍政権はロシアとの関係を重視するという事だろう。やっぱり北方領土問題の解決のための戦略があるのだろうか。言論の自由を盾に敢えて書かせてもらえれば、そんなに四島返還がいいのかと思ってしまう。日本の固有の領土だから取り戻したいのか。ロシアが北海道の目と鼻の先まで来られるのが怖いのか。アメリカから四島じゃなきゃ駄目と言われているのか。

 

北方領土のみならず、尖閣諸島竹島など日本の領土問題に関してはメディアで取り上げられることが多いが、その反面自分事としてとらえられない。ただ、係争地は日本固有の領土だから断固守らねばならないという文句だけは頭から離れないのである。だから中国船が尖閣諸島に迫ったと聞けば、「あいつら何やってんだよ」と罵り、竹島に韓国人が押し寄せれば、「調子に乗ってるな」と嘲る。この程度の知識しか持ち合わせていないと、さすがに恥ずかしいので勉強しなきゃと思っている。

 

ただ、やはり書店で立ち読みしても、ほとんどの書籍は「日本の領土だ」が全面に出ていて、ためになりそうにない。そんな本何冊読んでも、領土問題を包括的に知ることができない。私の関心は、北方領土が日本の領土なのか、どうやったら取り戻せるのかではなく、領土とは何かである。本当に固有の領土なんてあるんだろうか。そんなことを考えて書籍を探してみると『入門 国境学』が目についた。

 

 

『入門 国境学』まとめ

日本は国境への意識が低い。まず、日本は大陸国ではないため、国境が見えにくい。フェンスや壁、国境向かいにいる軍人など、そんな空間が日本にないからだ。まだ、著者のように、係争地など問題になっている地域に足を運ばない。対馬など行ってみると、韓国人観光客によって賑わっていて、とても係争地とは思えない感覚を覚えるようだ。

 

教科書などでは日本の固有の領土と教えられるが、まず固有の領土などありえない。時代とともに境界は塗り替えられてきた。国境の移動は主に戦争の結果である。日本も例外ではなく、占領や解体の繰り返しで国境は再構築される。

 

領土とは何かを考えるには、二つのアプローチが有効だ。ボーダースタディなるものを体系的に学ぶ。具体的に世界の国境問題を比較する。ボーダースタディの基本はヨーロッパである。歴史的に領土をめぐる争いが絶えなかったからだ。領土問題の基礎は、係争地がどちらの国に帰属するかの議論である。そして、主権国家を前提としているが故に、内政干渉基本的人権など主権をめぐる争いに焦点が行く。

 

オスカー・マルチネスの境界の性格付けは、境界の紛争レベルを知るのに有効である。①疎外:領土の主権を争うレベル②共存③相互依存:経済的な協力や移動の自由などを認めるレベル④統合:ある程度の市民権を共有できるレベル。法や交渉をもって①から④へ発展させていくことが望ましい。

 

戦略的に共同で使うケース。ゲートウェイとして別の地域に行くためのハブとして利用するケース。国の存続を左右する重要な領土として、断固守りを固めるケース。経済協力のために課題を棚上げにするケース。レベルと国家間の思惑によって境界の性格は様々になる。

 

しかし、旧来のボーダースタディには限界もある。背景には国境の意味合いが変わった。陸だけではなく、海の境界、空の境界、宇宙空間の境界なども問題になってきたからだ。今ではサイバー空間にも境界が存在する。もはや安全保障上の“砦”としての境界防衛は意味をなさなくなってきている。

 

主権がどちらにあるかという国際政治・法をベースにした考えから、その空間に住む人の経済・文化に焦点を当てた解決法を探ることがボーダースタディの課題である。その意味では経済協力などは重要なアプローチだ。目の前の海で漁業ができなくなる住民にとっては、市民権よりも海での漁が大事なのだから、「共同で海を使いましょう」が理想ではある。

 

そういう意味では国境だけではなく、沖縄の米軍基地のように生活空間に存在する大きな障壁が、住民の生活を疎外しているケースなども当てはまる。空間の生活と、国家主権の維持どちらを優先すべきであろうか。

 

 

やっぱり、固有の領土なんかないのだ。固有の領土を言い出したら、元々北海道はアイヌ人が先住民だったし、沖縄だって中国系の琉球王国だった。聞けば聞くほど危険な言葉な気がする。刻々と領土は変わっていくものらしい。思えば尖閣の問題も竹島もメディアで騒ぎ始めたのはここ10年くらいじゃないか。中国が力をつけてきたり、ロシアが西(ウクライナ)でもめてたりと、周りがずいぶん変わったのだから問題になるのも無理はない。

 

環境が変わったのに、同じ主張だけしていたらいいかと言えばそうではない。環境に対応するのが国の外交だろう。島をやるから海をもらうとか、島を半分にするとか、一緒に経済開発するとか、それが出てきてもおかしくない。新設されたロシア経済分野協力大臣には新しいアプローチを感じる。主権国家は今後もベースではあるにしろ、人・モノ・カネの移動は激しく、ボーダーが見えにくくなっている。そんな中だからこそ、国境に住む人の経済・文化活動に目を配ることが可能な気がする。

 

それにしても、隣国の動きに振り回されて、バタバタしているとは、日本とはつくづく小国だということがわかった。