ばんちゃんの読書日記~新書・文庫篇~

読んだ本の感想や勉強になったことをメモするための読書日記です。

Google先生とのつきあい方『誰が「知」を独占するのか』を読む。

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電動歯ブラシに専門の歯磨き粉があることがわかった。奥さんに「ちょっと調べてよ」と言われて、例のごとくGoogle先生を使って検索した。何も考えず、上位3つの記事を読んで歯磨き粉を選んで奥さんに報告した。「研磨剤が入ってなくて、ジェルタイプがよさそうだ。」「なるほどね。さすが先生」と、奥さんも手放しで先生を賞賛している。ものの5分足らずで必要な情報を手に入れ意思決定までできてしまう。一体、先生がいなかった時代、人々はどうやって調べていたのだろう。

 

WELQとかいうキュレーションサイトが、医学的知見を有した専門家の監修なしで医療に関わる情報を提供していたとして、掲載記事の見直しと非公開になったそうだ。どっかで聞いた名前だなと思い出してみれば、私が調べた歯磨き粉の記事ではないか。

 

歯磨き粉だけではない。子どもの夜泣きがひどい時には、「子ども 夜泣き」で情報を得、増えてきた白髪を染めるのにも「白髪 髪に優しい」で検索する。忙しいことを理由に、さくさくと欲しい情報が入れば、その信用性に1 nanoの疑いを持たず自分の意思決定に反映してしまう。我ながら愚かである。まとめ記事は読みやすいし、時には箇条書きで体言止め。大事なところには色がついているし、文字も大きくなっている。リテラシーが低い私にとっては便利なのである。

 

困ったらGoogle先生に聞く。この発想はいつから定着したのだろうか。社会人になって以降ずっと先生に頼りっぱなしだ。それに反比例するかのように、図書館に行く回数や新聞を読む頻度が減ってしまった。先生と上手につきあうにはどうしたら良いのだろうか。本書はデジタル時代の情報のあり方と、先生とは別の知識体系への取り組を示している。

 

ノート1:情報化時代の新しい「国家」

我々の情報は世界企業のプラットフォームに独占されている。そして彼らの敷くルールの上で情報が提供されている。毎日のように世界の人々がGoogleという「公共」サービスを利用している。まさに新しい国家といえる。そんなGoogleは、全世界の書籍データをスキャンしてデジタル化する野望を打ち出している。少しずつ著作権などの問題をクリアして前進しているようだ。

 

それに対して、特にヨーロッパでは反Googleの動きが加速している。理由は、一民間企業が公共の文化資産を独占することへの恐怖だ。企業のルールでアクセスが無料から有料になる可能性、企業が事業撤退した時の所有権の問題などが懸念されている。そして、その情報の信頼性が不明確であり、誤った情報を人々に植え付ける可能性がある。最も恐れているのは文化の均質化だ。

 

Googleの検索順位は独自のアルゴリズムで決まる。人々は上位検索しかアクセスしない。つまりGoogleが提供する情報を決めている。下位の情報が切り捨てられ、全員が上位の情報で知識を得ていくとしたら、知性は多様化どころか均質化する。特に、英語のような国際語以外の言語は情報が少ないため、文化の喪失にもつながりかねない。

 

ノート2:ヨーロッパのアーカイブ戦争

こうしたGoogleをはじめとするデジタルプラットフォーム企業に対抗して、EU(ヨーロッパ連合)はユーロピアーナという巨大電子図書館の運営を開始した。目的は「文化の維持」と言えるだろう。EU全域にまたがる文化資料を集めて公開している。公的機関の情報や、20世紀以前の古文書なども公開の対象になっている。専門家による知の編纂を通じて、市民に信頼できる情報を提供している。著作権問題やそれに伴うコスト問題もまだまだ課題が多い中、法整備を行い、孤児作品(権利者が不明の作品)などの公開にも踏み切った。

 

デジタルアーカイブを整理し誰もが有益な情報にアクセスできる取り組みは、大陸ヨーロッパからイギリスや北欧にも広がっている。ついには、グローバル企業のお膝元、アメリカでも公的図書館やNPOアーカイブのデジタル化の動きが活発化している。

 

ノート3:日本のケース

デジタルアーカイブ化が各国で進む中、日本ではあまり熱心に行われていない。第一に、国家予算が低く文部科学省予算の2%程度しかデジタル化に充てられていない。そして第二に人員も少ない。アメリカの公文書図書館での人員が2500名に対し、日本の国立公文書館には50名しか働いていない。第三に、それゆえ年金記録など公文書の管理がずさんで、古い資料の欠品や紛失が多い。公的文書は官僚が使う秘密主義的ものとの認識も強い。

 

また著作権・肖像権についても法整備が不十分である。もちろんすべての資料をデジタル化するのは著作権の問題が大きく困難を伴う。それゆえ、著作権がすでに切れている資料を収集するのが必須である。また孤児作品もデジタルアーカイブとしては重要な意味をもつ。しかし日本では孤児作品を公開する場合に権利者を探すコスト、公開をお願いするコストなどが高くつき厳しい。ヨーロッパでは、孤児作品著作権団体に一任し、著書を名乗る人が出てくるまで、公開するオプトアウトをとっているが、日本ではそれができない。それゆえ、なかなかにデジタル化すべき資料が増えていかない。

 

日本でも、ヒト、カネ、著作権の課題を克服してデジタルアーカイブを作っていかなければならない。そしてユーロピアーナをはじめとする世界各国の相互利用ができる世界を目指すべきである。

 

 

世界のすべての情報がデジタル化されれば、どこにいても文化資料・公文書にアクセスできる。デジタルアーカイブという言葉は魅力的に聞こえるのだが、我々がいつも求めている情報とはそんな崇高なものではない気がする。

 

だいたいが私のように「ちょっと知りたい」程度なのではないか。もちろん嘘の情報は困るが、「真実は何か」みたいなものだけが情報ではない。検索すると上位に来る「まとめ記事」は又聞きをまとめただけだろう。論文でもニュースでもない。伝言ゲームみたいだ。どっかの記事をまとめて、それを読んでまたまとめて、まとめのまとめを続けたら答えがちょっとずつズレてくる。そんな感じだ。

 

私はGoogle先生が大好きだし、今後もお世話になるつもりだ。信頼性が低いサイトが検索上位に来る場合もあるだろう。でも、それを信じてしまうのは怪しむ力がない私のせいだ。マーケットだからこそ悪い記事は読まれず、良い記事だけが残る気もする。そして、操作される可能性があるとはいえ、ユーザーが求めるものが生き残るのだろう。生き残ったものが「まとめ記事」ばかりだったら、それはユーザーの能力の低さが問題だ。

 

情報に対する感度、検索の仕方がユーザーに求められているのだろう。世の中私のような阿呆ばかりではないはずだ。自分にとって大事な意思決定を行うときにはもっと慎重にあらゆる手段を使って正確な情報を得るはずだ。巨大な知能Googleと上手におつきあいするには、検索者である私の知的レベルを上げていかなければならないのだろう。

 

それにしても、確かに英語ができるだけで情報量は莫大に増える。やっぱり勉強しておいたほうが得だな。