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ばんちゃんの読書日記~新書・文庫篇~

読んだ本の感想や勉強になったことをメモするための読書日記です。

我々は自分が思うほど自由ではない 『寝ながら学べる構造主義』を読む。

思想 歴史

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娘には是非とも英語をマスターして欲しい。およそ20年間の教育を受けてさえも英語を話せなかった親としてのたっての希望である。

どれだけ時間を無駄にしたのか。教育という名の下、This is a pen.から始まった莫大な投資は、完全な失敗に終わったのである。もちろん効果が出ない時点で撤退も考えた。英語にお金と時間をかけるなら、自分の得意な科目にかけるべきだったのだ。

しかし、どういうわけか英語に執着し、英会話に行き、TOEICを受け、留学までした。義務教育で慣らされた英語絶対論に毒されていたのだろう。それとも「ここまでやって無駄に出来るか」と思ったのであろう。

学校教育というシステムに組み込まれている以上、中学校で「俺は英語は向いてなさそうだから、数学の時間を増やしてください」とは言えまい。「効果が出ないのでやめます」という選択肢がない。英語教師の善し悪しを判断できる能力もない。

悲しいかな、自分の能力を高めるための教育が足かせとなり、英語ができないという劣等感だけが産まれ、英語の代わりに費やすべき時間とお金で手に入れることが出来たであろう私の隠れた才能は開花せずに終わったのである。

恨み節はここまでにしておき、『寝ながら学べる構造主義』のまとめを記しておきたい。我々は意識する、しないに関わらず、行動・思考が制約を受けている。しかし、おおよそそれには気づかない。自分が正しいと思う判断は、自分が考えたモノではない。

自分がとった行動さえも自分の意思ではない。英語の勉強を「絶対に役に立つ」と思って、無駄に頑張り続けた自分さえ、自分の意思ではないのかもしれない。そんな恐ろしい構造主義について学んでみた。

 

 

ノート1:構造主義とは何か

私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。自分が思っているほどに、自由にあるいは主体的にものを見ているわけではない。(p.25) 

構造主義的な見方をすれば、私たちが自然に自動的に行っている善悪の見極め、美醜の判断、普遍性は絶対に正しいとは限らない。当然と思っている考え、価値観を疑う必要があるのだ。

 

ノート2:ソシュールの考え

構造主義の出発点は、ソシュールの言語論とする見方が妥当である。ソシュールの「ことばはものの名前ではない」という考え方によれば、言語活動とはもともと切れ目なく流れる自然世界に人為的に切れ目を入れてまとまりをつけることだ。

 例として同じ「羊」を表す言葉でもフランス語はムートンで表せるが、英語にはマトンとシープがある。英語では食べるための羊をマトン、一般の羊をシープという感じで、人為的に羊にあるまとまりに入れたのだ。

言語が意味を作り上げるという点からすれば、もはや私たちが母語を話すことは、自分の考えを伝えるのではなく、独自の意味を持つ言語を運用しているに過ぎないのである。

 

ノート3:フーコーの考え

構造主義の前に主流だった考え方は人間主義だ。人間主義において、人間は歴史的に社会を進歩させてきたと考える。現在こそが、歴史上一番、進んでいると言っている。フーコーはこの考え方を批判した。歴史には語られてきた歴史と、語られてこなかった歴史があり、人間は任意にそれを区別してきたのだ。

フーコーによれば、考え方、価値観、文化だけでなく人間の身体でさえも、何かしらの前史を経由して形成される。近代においてその形成は、国家権力による標準化によって行われた。

国家権力が人間を標準化することで、狂人を追放し、歩き方さえも矯正したのだ。フーコーは人間歴史は進歩の歴史ではなく、標準化・構造化の歴史だと主張した。

 

ノート4:バルトの考え

バルトの考えで大事なのは、記号だ。記号とはある社会集団が制度的に取り決めたしるしと意味を組み合わせること。例えば、トイレのGentlemen の文字(しるし)は男性という自然的対象に対して「男性がここで排泄する」という社会的意味をつけた点で、記号と呼ばれる。

こうして何らかの意味づけされた社会集団において人間は自分の立場・考え方を表明する。バルトの大事な概念の一つは、エクリチュールだ。エクリチュールとは自分が属する社会集団での立場によって使われる語法だ。

例えば、中学生が反抗期になると、自分を「僕」から「俺」と呼ぶのもエクリチュールだ。エクリチュールはあらゆる社会集団において、自分の立場によって話し方、話す内容が変わることを示している。つまりは、自分たちの言語は、社会集団によって制約を受けるのである。

 

ノート5:レヴィ=ストロースの考え

レヴィ=ストロース文化人類学の立場から、人間の進歩主義を否定する。様々な民族のフィールドワークを経てたどり着いた結論は、「世界は文明化された社会、文明化されていない社会に分かれていない」ということだ。概念や語彙が豊富であることは、決してその社会集団が知的に優秀なのではなく、その領域に深い関心があるかどうかの差にすぎない。彼は、啓蒙主義の名の下で、未開の土地を植民地化することで文明化を推進しようとするヨーロッパの考え方を批判したのだ。

この考えから得られることは、「人間が社会構造を変化させる」ではなく、「社会構造が人間を作っている」という結論である。すでに社会集団にある構造が、その人間を決定づけるという考え方だ。レヴィ=ストロースの登場をもって、構造主義はその形を完成させたと言われる。

 

ノート6:カランの考え

人間は赤ん坊の時に、鏡を通して自分をはじめて認識する。同時に、鏡の自分を自分と認識しながら自己を形成する過程があるゆえに、人間は自分の中に異常なモノを含んでいる。

自分を認識するには自分が「こういう人間と思われたい」という意識のもと、自分の話をする。それゆえ、決して聞き手には真実は届かない。自分の作った物語だけが聞き手に届くのである。その意味で人間は主体的とはいえないのだ。

 

 

また英語の勉強を思い出した。全く英語ができなくて、半ば八つ当たりのように「英語は馬鹿の言語だよ。熱いも辛いもHOTって、どれほど表現力が乏しいのかね」とこぼしたことがある。構造主義的な考え方をすれば、アメリカなんか、何でもパンに挟んで食べるような国だ。食に対する関心が浅いのだろう。決して劣っているわけではないのだ。

 

構造主義を考えれば考えるほど、何を語っても何を考えても、構造主義に囚われていることがわかる。そろそろこの辺で終わりにしよう。私の頭には負荷が強すぎた。