ばんちゃんの読書日記~新書・文庫篇~

読んだ本の感想や勉強になったことをメモするための読書日記です。

狂気の時代の空気『海と毒薬』を読む。

三笠宮さまが逝去された。歴史家としての顔と皇軍参謀としての顔、両方を持つ。皇族の中でもリベラルであり、世界大戦での日本軍の風紀に疑問を呈し批判したことで、天皇びいきとされる右派からも猛烈な非難を浴びた人物。実際に中国・南京の軍参謀を務めていたこともあり、戦後も戦争に対して深く後悔していたという。南京大虐殺をめぐっては、虐殺はなかったとする歴史修正主義を「あれは紛れもなく犯罪である」と断罪している。戦争という特異な空気の中で、理性的な判断ができ、かつその他大勢とは異なる意見をハッキリ主張できる。あらためて三笠宮さまの偉大さを感じずにはいられない。

 

私たち庶民にとって社会の空気ほど大事なものはない。みんなと同じでなければいけないという、いわゆる「空気を読む」ではない。私が考えるのは、その時その社会に誰もが確認しあってできたわけではないが、いつの間にかできている価値観みたいなものだ。

 

例えば、「働き方」である。ひと昔前なら、残業は当たり前で、誰も何も言わなかった。しかし今は、「残業」が会社の評価につながるほどシビアに見られる。以前、上司に「今は残業削減が当たり前だから」と言われて、仕事を中断し帰宅したのを覚えている。どうしても残業が必要な時もあるだろう。でも、明日できないのか、別の人にふれないのか、となる。いわゆる「今はそういう時代だから」だ。

 

『海と毒薬』は、大戦中の大学病院で行われたアメリカ人捕虜の生体解剖実験の話である。(実話とは違うようだ)戦争という異様な雰囲気の中で、なぜ病院関係者は明らかな犯罪と知って人体実験を行ったのか。読んでみると、時代が作り出した空気の存在を考えずにはいられなかったのである。

 

ノート:生体解剖を行った人々

勝呂:本編の主人公である研修医。病院内での政治闘争に嫌気をさし、早く田舎で開業したいと思っている。初めて自分が担当した患者は、手術を控えていたが生存率はかなり厳しく、助からないことを知って絶望を感じている。多くの患者が死んでいく病院で、医者という職業に疑問を持ちながら働いているところ、アメリカ人捕虜を生きたまま解剖するという実験に誘われて参加することになる。しかし手術が始まると、生きた人間を解剖することへの罪悪感が芽生え、途中棄権する。

 

戸田:勝呂と同じ研修医である。父親も医者で、エリートとして育った。子どもの頃からどこか冷めていて、どうすれば大人が喜んでくれるかを熟知していた。そうした歪んだ性格は、医者になっても持ち合わせていて、死に対して淡泊な考えをもって患者と接している。今回の生体実験でも率先して参加する。勝呂とは違い、最後まで(捕虜が肺を切除されて死に至るまで)実験を手伝った。戸田はこの実験が、非人道的であり犯罪行為であることを認知しながらも良心の呵責を感じない。そのこと自体を戸田は恐ろしく思うようになる。自分の人間性に深い嫌悪感を覚えていく。

 

上田:元々、大学病院の看護婦だったが、結婚を機に夫の駐在する満州に移って暮らす。しかし子どもの流産、子宮の切除、夫の浮気など不幸が重なり、離婚後にふたたび大学病院に勤め始める。大学教授の奥さん(ドイツ人)が患者に対して人道的で献身的に接するのを見るたびに、彼女を憎むようになる。唯一の抵抗として、奥さんも知らない秘密を教授と共有することだ。奥さんが、教授が秘密裏にアメリカ人捕虜を解剖実験に使っているという事実を知らないことに興奮を覚える。

 

橋本教授:次期部長をめぐる病院内の選挙戦で、苦戦を強いられている。そんな中、自分が執刀した手術で失敗して患者を殺してしまう。手術ミス隠し、術後の様態の異変として取り繕うが、教授の権威は失墜し部長選でも厳しい立場に立たされる。名誉挽回のため軍医関係者と手を組みアメリカ人捕虜の解剖実験に手を染める。

 

読んでいくと、生体解剖に関わった医者・看護婦には心の闇を抱えていたり、政治的な思惑があったりすることがわかる。なるほど、事件が起きれば犯人の過去を掘り起こし、心の闇が事件の引き金になったとワイドショーが語る通りだ。

 

一方で、それぞれ事情が違っても、全員がこの実験が犯罪であることを知っていたのだ。なぜ、社会的にエリートであるはずの医師がこうした犯罪を行ったか。そういう「空気」だったからではなかったか。戦争で街は火の海、毎日多くの死者が出ていた。病院の患者もほとんどが治療の甲斐なく染んでいく時代だった。戸田の口癖「どうせ戦争で死ぬんだから」や「戦争で殺されるのも解剖で殺されるのも変わらない」は、今はそういう時代なんだと言わんばかりの説明だ。

 

結局、人間を導くのは空気な気がする。内面の弱さやもろさがあるとき、時代が後押ししてくれると感じられる。三笠宮さまのように、その空気に危険を感じ、それを周囲に伝えるのは並大抵のことではない。

 

「残業が悪」という空気ではなく、いかに生産性を上げるかという視点で経営判断したい。もしその残業で、良い成果が期待できるならGOサインを出そうではないか。空気の代わりに人を導く。リーダーの仕事とはそういうことかもしれない。

 

海と毒薬 (新潮文庫)
海と毒薬 (新潮文庫)
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遠藤 周作
新潮社