不条理との闘い 『ペスト』を読む。
8月はお盆や終戦の日、原爆投下の日、日航機墜落事故など、死者を弔う行事が多い。久しぶりに新幹線で出張に出かけたが、帰省ラッシュに巻き込まれえらい目に遭った。小さな子供に我慢を強いてまで、家族が混雑した新幹線に乗って実家に帰り、お墓の前で祈りを捧げるのだ。テレビでは連日、戦争関連のドキュメンタリーが流れている。戦禍に巻き込まれた人々の悲しみや怒りを伝えることで、平和のありがたさを主張している。
世の中は不条理にあふれている。戦争に巻き込まれたり、不治の病にかかったり、災害で家族を失ったり、自分ではどうしようもない悲劇に遭うたび、自分の無力さを嘆き、やり場のない怒りでいっぱいになる。しかし、不条理こそが人生である。自分の思うようになんかいかないのだ。いつ戦争や災害に巻き込まれるかもしれない。病気が見つかり余命を宣告されるかもしれない。8月はいつもこんなことを考えてしまう。青空が一番明るい季節なのに、気持ちが暗くなる月なのだ。今年はどんよりした日が続くから、一層気分が重たい。
カミュの大作『ペスト』を読んだ。ペストという悪に圧倒され、絶望していく人々が、この不条理の中で必死でもがいていく姿がとても印象的だった。
あらすじ
アルジェリアのオラン市で原因不明の熱病が流行した。医師であるリウーは、熱病の症状がかつてヨーロッパで猛威をふるったペストであるという疑いを持つ。市政府はパニックを恐れるあまり、本当にペストであるという確証がないかぎり動かないという。そうしている間にペスト感染が拡大し毎日死者数が雪だるま式に増えていった。
ペストであることを認めた市政府は、感染拡大を防ぐため市を封鎖。感染の疑いのある人々は収容所へ移され、家族とも離れ離れになった。人々のペストへの怒りの矛先は、厳格に締め付けを行う市政府に向けられ、市民と市警への衝突に発展していく。
医師リウーは、他の街で療養している妻を案じながらも、不条理に命を奪うペストの進行を食い止めるべく、市役所や仲間とともに保健団を結成して患者の治療にあたる。しかし、ペストの勢いは止められず、人々は絶望を通り越して諦めの境地に向かっていった。
勝ち目のない戦いを繰り広げながら、人々はやがて団結し始める。神父、子供、金持ち、犯罪者…どんな立場の人にも平等に訪れる死を前に、必死でもがき続けるのであった。
人間は自分が第一である。
集中豪雨でも北朝鮮のミサイルでも、我々は危機に対して鈍感である。その脅威は知っている。しかし、どこかで自分には起こりえないと思うのである。そして、政府から出される避難指示などに対して、大げさだとか面倒だとか愚痴るのだ。自分や自分の家族が危険に身をさらされて初めて、恐怖や怒りの感情が生まれる。
ペストの兆候が見られ死者の数が増加していく中でも、市井の人々はどこか他人事。悪いことや想定外の事象は起きないと信じている。たとえそれが起きたとしても、いずれは過ぎ去っていく、長く続きはしないと高を括っている。カミュはそれを人間中心主義の考え方と評した。では、ペストの正体が明らかになったとき、人々は恐怖や悲しみとう感情を持っただろうか。否。それよりも、政府による習慣や利益への妨げを気にするのだ。隔離され政府の支配下に置かれたオラン市の人々にとって、ペスト対策がもたらす不都合への憤りが最初なのだ。
次第に、ペストが蔓延し自らがペストにかかり、また家族がかかり隔離されるようになってはじめて、人間は恐怖や離別を感じ、個人的な事象から社会的な事象へと昇華していくのである。
善意を過大評価すべきでない。
善意は必ずしも役に立つものではない。時としてそれは邪魔者になりうる美徳である。ましてや自分の行為を、「素晴らしいことをしている」と勘違いすることは危険である。
リウー達が政府とは別の保健隊を組織し、ペストの予防対策を行ったとき、著者は決して善意をひけらかすものではないと釘をさしている。
美しい行為に過大の重要さを認めることは、結局、間接の力強い賛辞を悪にささげることになると、信じたいのである。(p.193)
世間に存在する悪は、ほとんど常に無知に由来するものであり、善き意思も豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。(p.193)
東日本大震災においても、九州豪雨においても、市民の自発的な活動が大きな役割を果たしてきた。ボランティアによって多くの人が助かっているのも事実である。しかし、それを過大に評価したり、その行為自体に酔いしれたりすべきではない。専門の集団に任せたほうが、より多くの人を救えるかもしれないのだ。
不条理に対して論理は役に立たない
物語の中ではペストによって、自分の持つ論理を大きく狂わされた人物がいる。社会的な正義を生業とする新聞記者のランベールと、宗教的指導者である神父パルヌーだ。
ペストへの対応をめぐるランベールの主張はこうだ。「公共の幸福は一人ひとりの幸福によって成り立つ」ものであり、隔離や、他国への渡航禁止などは、一人ひとりの人間の幸せになる権利を奪っている。ランベール自身、オラン市にたまたま居合わせた人間として、フランスに残してきた細君に会えない怒りに苛まれていた。
人権を盾にとって至極まっとうな論理を振りかざすものの、誰一人として外へ出すことはできないという政府の主張は変えられなかった。結局、彼は密輸業者の手助けによってオラン市脱出を試みる。ところが、彼と同じ境遇で、病気の妻を市外に残しながら、患者の看病にあたり、ペストと対峙する医師・リウーの姿をみて彼の論理は逆転する。
自分ひとりが幸せになったところで、全体が不幸であるならば意味がない。公共の幸せを優先的に感がるようになったのである。結局、彼は国外への脱出するチャンスを逃し、リウーらとともにペストと戦う。
神父・パルヌーはどうか。ペストは神が与えた試練であり、ペストによる苦しみ、悲しみは我々の罪を見つめなおす良い機会である。これが神父の論理であった。絶望の中で生きる人々にとって、パルヌーの祈りは崇高なものになった。群衆がパルヌーの説教を聞くために殺到するほどに支持された。
ところが、ペストに侵され、苦しみ悶えながら死んでいく少年の看病に立ち会うことで、彼の論理はもろくも崩れる。罪のない少年へのむごたらしい神の仕打ちに対し、「我々人間の理解を超えた存在」として、この現実を受け入れるしかできなくなるのであった。
どうしようもない状態の中では、理屈や論理などに意味はなく、リウーのように黙々と不条理に抗い続けるしかないのである。しかし、この必死の抵抗こそが、自分中心の考え方を、社会の連帯へと昇華させる。最初は、自分や家族のことしか気にならなかった人々が、絶望の中でもがく人と共感しあい一緒に立ち向かっていく。これが人間のすごいところなのではなかろうか。
東日本大震災で唱えられた”絆”がそうであるように。戦後の復興がそうであるように。
「なんで自分がこんな目に」そう思ったとき、必死であがいてみよう。やるべきことを淡々とやり続けよう。いつか事態が打開できるかもしれない。そんな気持ちにさせられた。