ばんちゃんの読書日記~新書・文庫篇~

読んだ本の感想や勉強になったことをメモするための読書日記です。

人間は矛盾した生き物である『自由と秩序』を読む。

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最近、いわゆる意識高い系の友人から、News Picksというキュレーションメディアを紹介された。新聞から雑誌まで、ユーザーが気になる記事が羅列されている。そして、Picker(ピッカー)という人たちが、その記事に対してコメントを書いている。

Facebookよろしく「いいね」ボタンまでついている。ピッカーは基本的に実名である。匿名性がない分、書いたことには責任を持たなければならない。「なるほど」と思いながら、友人が書いたコメントの誤字脱字を探している。相変わらず性根が曲がっている。

 

国会議員のお偉いさんや、会社の社長、ホリエモンなど著名人もPro-Pickerとして登場する。言わずもがな、彼らのコメントには異常なほどに「いいね」がついているし、記事に対する議論も活発である。キュレーションメディアだから、おいしい記事をかいつまんで読めるという効率性はうれしい限りだ。

しかし、よくもまあ、色んな記事に目を通して、長文でコメントをずらずらと書いておられるなあと、そっちのほうに関心がいってしまう。彼らは暇なのか。

 

 

記事に対しての意見を読むのは、新しい視点を手に入れるには非常に有益だとも思っている。しかしながら、秀逸なコメントを残す人もいる一方で、記事への批判や、他者を小馬鹿にしたようなコメントも目に付く。

中でも鬱陶しいのは、例えば、北朝鮮ミサイル発射の記事に対して、「日本にミサイルを落とすことは合理的に考えればありえない。そんなのバカでもわかる。」とか、大臣更迭について「失言にばっかり注目が行って、議会が空転しているよね。メディアの責任だ」のような辛辣なコメントだ。

 

特に厄介なのは、その道の専門家でもないのに「自分知識あります」を延々と持論を展開する輩だ。情報化社会の恩恵により容易に手に入る知識でもって、専門的すぎると読者が減るもんだから誰でもわかるような説明で書いている記事をあげつらって、「私のほうが知っている」を見せびらかす感じが気持ち悪い。

片手間でなんでも議論できるほど、問題は浅くないのに。挙句には、極論を求めるのである。せっかく友人が勧めてくれたのだが、知識に対して謙虚でいたい私は、こうしたメディアからは距離を置きたい。

 

色んな分野の人がある事案に対して、議論をすることはとても大切だと言われている。一方で、社会は複雑化して記事の書き手も読み手も、表面的な議論に終始するように見える。こうした知の衰退を15年以上も前に予測した『自由と秩序』は、まさに高度に専門的な分野を持つ人材の確保を訴えかけている。

 

ノート1:市場と国家の限界

人間の理性には限界がある。合理性をベースに考えてきた競争とコントロールは失敗する。自由競争は、生存のための合理的な行動を人間に期待してきた。しかし、競争には「遊戯」としての競争がある。ゲーム自体を楽しむ習性を持っているのだ。そうすると、競争の自己目的化が起こり、ルールを曲げたり破ったりする人も出てくる。

一方で、経済競争を制限することで人間の競争心を封じ込めることも不可能だ。社会主義国家では、政治闘争の激化と権力の集中が不正や粛正をもたらした。人間の理性は社会を管理できないのである。

 

ノート2:民主主義の限界

民主主義は言い換えれば人の自由を保障することである。人間は「人よりもより良く生きたい」という競争の側面と、「人と同じがいい」という平等の、矛盾した側面を持っている。その中で、どう折り合いをつけるかが大事なのである。

こうした人間の性質から、平均的なものへの傾斜、利己心の無制約な発現、公的な事柄への無関心を招く。それが多数決により決められることで、民主主義は機能しなくなる。

 

ノート3:中間集団・専門家集団の重要性

人間の行動が矛盾をはらんでいるのだから、市場に任せるか、国家に頼るかの二元論には限界がある。そこで必要になるのは、中間集団の存在感だ。労働組合、経営者団体など、特定の利益で結び付く団体は、うまく機能できれば民主主義の欠陥を補ってくれる。アレクサンドル・トクヴィルは、『アメリカの民主政治』において宗教の役割を指摘している。プライベートかパブリックかという議論から、公共の利益(common)の概念を作り出す必要がある。

 

もう一つは、意思決定のための専門家集団の育成だ。日本では概して調整型のリーダーが好まれる。アクの強いリーダーはつぶされる傾向にある。本当は、様々な妥協点を見出しながら真に公共にとってベストな政策を出すのが望ましい。しかし、八方美人な政策で、結局なにも変わらないという事態が多い。

政策決定段階で指導者に選択肢を提示できる専門集団を利用すべきである。これだけ社会が複雑化すると、官僚だけでは正しい解を得られない。

 例えば、アメリカのクリントン大統領は、訪中の際、中国研究の専門家300人~400人を連れて北京入りしたという。官僚を数人引き連れて、相手とニコニコ握手する日本の首相とは大きな違いである。アメリカは専門家の重要性を熟知しているのだ。

専門性の分化と情報化によって重要な政策を高度に分析する能力をもつ人材を育てていかなければならない。

 

ノート4:異なるものとの共存

ガセット・オルテガが『大衆の反逆』で述べたように、民主主義は「敵対するものとの共存」なのである。自分の意志だけがまかり通ることはない。どこかで折り合いをつけなければならない。そのときに試されるのは「統治される能力」ということになろう。

 

 

かつてアメリカは、日本を占領するのに日本に詳しい専門を使って戦略を練った。代表的な人物はベネディクト・アンダーソンだ。『菊と刀』はあまりにも有名だ。日本をよく知ったうえで統治戦略を立てたことで、日本に民主主義が根付いたと言われている。一方で、イラク戦争で、ブッシュ政権イスラームの専門家からの助言を聞かなかったといわれている。真偽のほどは定かでないが、イスラームに対する理解を深めながら占領戦略を練っていたら、ISの登場は防げたのかもしれない。歴史にたら、れば、は禁止だが専門家の重要性をひしひしと感じる。

 

インターネットの普及以前は、我々素人が自分の意見を示す場所は少なかった。実名で意見を述べるには、主張と根拠を明確にしなければならない。ただの論理的な整合性とは違うわけだ。だから、研究者のような人がそれなりの知見と、実証に基づきながら、論を講じるのが一般的であり、素人はそれを読み「なるほど」とか、「いや違うのでは」とあれこれ考え、また調べる。反論があれば十分な根拠を示す。生半可な知識ではとても反論なんてできないのである。的外れな主張や、ありきたりの一般論はまずもって相手にされない。

 

LINEの幹部が書いた「憲法はただの紙切れ」論なんか、恥ずかしくて世の中に出せるわけがない。憲法について深い勉強をしていないことがまるわかりではないか。せいぜい、池上氏のよくわかる憲法の本あたりを読んだ知識で憲法なんて論じられるわけがない。素人がSNSあたりで、堂々と主張することは、知識不足を露呈するだけで、やっぱり恥ずかしい。私には「なるほど、ふむふむ」がお似合いだ。

 

主張するにはそれなりの根拠や理解を伴ってはじめて成立しうる。専門家でもない限り、いちいち議論する必要はないのかもしれない。「そういう考え方もある」と受け止めればよかろう。

 

北朝鮮の戦略について、素人が熱く語ってもあまり意味がない。ミサイルが降ってくれば、どうせみんな死ぬんだから。