ばんちゃんの読書日記~新書・文庫篇~

読んだ本の感想や勉強になったことをメモするための読書日記です。

『日本国憲法の価値』を読む。

今回の参議院選挙では、優秀なメディアの方々の予想通り改憲派が2/3を超えた。有権者のどのくらいの割合が憲法改正を支持して投票したかはわからないが、憲法改正を問う国民投票ができる環境は整ったということか。国家の骨組みである憲法を改正することは、国民にとって一大事であることは間違いないのだが、それでも気が重い。こないだのイギリスの国民投票の結果を見ていると、やっぱり大事な事こそ我々の代表が議論を重ねて結論を出して欲しいと思うのである。

 

自己中心的で自分の利益ばかり考えているおバカ100人の意見が、自己犠牲の精神で本気で国のあり方を考えている賢者10人に勝ってしまうのが民主主義だ。エゴの塊である私のような人間に、投票する権利を与えるのは危険極まりないであろう。だからこそ、「賢者よ出てこい」だ。「政治家よ賢者たれ」だ。

 

日本国憲法の価値』を読んで、改憲か護憲かという二元論を超えて、なぜ憲法を変える必要があるのか、変えるとしたらどう変えるのかという議論をもっと理解した方がいいと思った。

 

ノート1:20世紀の思想家による自由・平等・公正という価値

バーリンの思想

・『消極的自由』(他人の干渉からの自由:最小限保障されるべき個人の自由)と『積極的自由』(自由を守るために権力を行使して統制する自由=参政権

・政府(積極的自由)による消極的自由の侵害が起こる可能性があるので、独裁・全体主義に結びつく。だからこそ、基本的人権の不可侵性を憲法で明文化するべき。

 

ポパーの思想

・『開かれた社会』:「諸個人が個人的決定に直面する社会」。法の下の平等を主張。

・無制限の自由は、強者が自由に弱者を脅し、弱者から自由を強奪できる。

政治は絶対的な存在ではない(多数者による専制)。批判にさらされる政治制度の提案。何度も修正しながらよりより政治を目指す。

古代ギリシャの学問の精神=批判に寛容であること。

 

ロールズの思想

・優先されるべき人間の権利とは①平等な自由 ②経済的社会的不平等の統制(公正)

・権力に対しての「市民的不服従」そして良心的拒否は認められるべき。

・自衛のための戦争は、条件付きの平和主義として認められる権利。

 

基本的人権は自由・平等である。個人のこの人権を侵されないために、政府による統制が必要である。しかし、政府が個人の自由・平等を侵す場合もある。だから、個人は政府に対して不服従する権利を持つ。それが憲法に記載されている。

 

ノート2:リベラリズム

・自由・平等(・公正)に価値を見いだす思想はリベラリズムである。

・右派・左派問わず持ち得る価値観である。だから保守的リベラリズムという概念もある。

リベラリズムの反対は、全体主義共産主義だ。

・日本では右派と左派(保革)対立が表面化していたため、リベラリズムへの価値の見直しが図られなかった。

・実際、GHQによる日本国憲法の起草に関しても、日本の代表的なリベラリストも加わっていた。日本国憲法にもこの自由・平等・公正がしっかり組み込まれている。

 

ノート3:新しいリベラリズムの台頭

・左派勢力の衰退とともに新たに出てきたのが、新リベラリズムである。

・新リベラリズムは世界的な動きである。インターネットを通じた相互接続権力により、例えば中東の独裁国家が次々と崩壊した。

・大学生を中心としたSEELDSが、政府の安保法案に反対するデモを行った。

・沖縄の世論:沖縄基地問題に対して、政府の政策を批判した。

丸山真男民主化マトリックスで言えば、個人のフェーズ(私化・自己)から民主化への流れに入った。

 

著者は護憲の立場を取っている。日本国憲法にはリベラリズムの大切にする価値観が入っていて、それを守るべきだという立場だ。だから政府の改憲派の、「アメリカによって作られた憲法だから」という理由が、改憲の議論としてはおかしいと感じている。一方で、9条の問題に関しては、ロールズの正義論が唱える「条件付きの平和主義」こそが、自由・平等を語る上で正当性のある形であるとも訴える。

 

自由・平等は素晴らしい価値観だ。誰も否定はしないと思う。ただ、それが金科玉条かといわれるとどうだろうか。やはり、人間にとって一番大切なのは命なのだよ。これが脅かされたら、自由も平等もない。確かに、日本のように平和で経済的に恵まれた国で、しかも美しいリベラリズムの価値観に従って生きてきた国の人間にとって、命を脅かされることは想定しにくい。でも、そうした価値観が育っていない発展途上国や、紛争地域では通用しない。自由を認めたら、自分の自由のために他人を殺すことがある。平等を達成するために、富の強奪が起こる。こうした地域では、こうした事が起きないように、多少不自由しても、不平等が残っていても、命が守られるなら、人々は躊躇無く軍事政権を支持するだろう。そういう国に対して、先進国が偉そうに自由・平等は素晴らしいといって、軍事政権とかを否定するのはちょっと違う気がする。

 

日本の置かれる環境はどっちかということ。命が奪われるかもしれないという危険性を感じれば、軍隊の強化が必要だ。憲法とくに9条を変えたい人はこの危険をすごく感じているのだろう。自由、平等の価値が壊れても、国に命を守ってもらいたいと切に願う人もいるはず。

 

ただ、自由・平等のためには、政府に命を守ってもらわなくてもいいという国もある。どっかの国は、憲法に「銃をもっていいよ。命を守るために。」と書いている。究極的に自由と平等に価値を置いている国だ。個人が自衛のために武装していい民主主義ってのもこの世にはある。我々もどんな国にしたいのか、それを決めないと憲法は変わらない。

 

 

 

『仮面の告白』を読む。

誰にも言えない秘密をもっているだろうか。それがもしも、性に関することだったら。知り合いにやたら風俗好きの男がいて、全国津々浦々、出張のたびに夜の街に繰り出しては、お店を探す。本人いわく、「やっぱりプロは違う。」そういう訳で、彼女との夜の営みよりも、風俗での体験が勝るのである。もはや彼女の前では起ちもしないそうだ。そうすると、好きな人と、したい人は別ということになる。それを恥ずかしげも無く私に言ってくるあたり、自分を特別な人として見てくれているのだろう。「コレは秘密だよ。」と言っておきながら、結構周りに話している。回り回って、彼女の耳に届かないことを願いたい。

 

三島由紀夫の自伝的小説『仮面の告白』を読んでいてふと、知人を思い出した。そんな知人の秘密以上に、主人公(おそらく三島本人であろう)の抱える性なる秘密も驚嘆を禁じ得ない。

 

私にとっての三島由紀夫のイメージは、右翼であり硬派であった。角刈りにはちまき、学生服といった出で立ちで、日本国の将来を憂い、自衛隊を決起させまいと自ら日本刀で腹を切って自殺した。そんな男の裏の顔とでも言おうか、本当の彼の姿はそのイメージとは正反対のものであった。仮面をかぶった男の大胆な告白だ。

 

ノート:ざっくりと『仮面の告白』の主人公について

・幼少期からひ弱で華奢な男の子だった。

・祖母にかわいがられたため、両親からの愛情が届かず、祖母の歪んだ愛情によって育てられた。祖母の好きなものが、自分の嗜好に反映されている。

・子供のころ女装をして、母親をしらけさせた。

・死にあこがれを抱きつつも、戦時中の徴兵制においては、虚弱体質と仮病によって兵役を逃れた。

・筋肉ムキムキの男にあこがれる。いつしか性的な対象へと変化している。ダビデ像とかでオナニーしている。

・汚穢屋のふんどし姿、同級生の懸垂しているときに見える脇毛、軍人の汗のにおい、こうしたものに興奮を覚える。

・恋愛も奥手、好きな人は女性、でも性的な対象は男性。女性の前ではインポテンツ。それを克服しまいと、挑戦はするものの不発に終わる。

・結局、彼女とも結婚できず、破局するはめに。

 

さすが世界のミシマと言わせるほどの、リアルな描写。あまりに生々しく表現するので、読んでいる自分が恥ずかしくなるくらい。主人公はそんな自分の秘密を、恥だとも思っている。だから、周囲にバレないように上手くごまかしながら生きていった。普通と違うことを「恥ずかしい」と思う気持ち。この気持ちは現代であっても変わらないのだろうか。

 

たしかに、今は例えばセクシャル・マイノリティ(LBGT)の一般的な理解が進み、様々な性の形を受け入れる環境は整いはじめている。男性に性的関心を持っていた主人公は現代で言えばゲイか。性には色んな形があってもいいよ、と世間が言ってくれたら彼も、自分の性を堂々と告白できたのだろうか。

 

三島の時代には、戦時中という独特の全体主義的空気があった。そこでは日本男児のあるべき姿が示され、男らしさを強要される時代だった。そして、家族への影響も大きかったと思われる。いわゆる世間体というやつだ。こうした背景が、自分の異なる性の嗜好性に関して、堂々と公言できない理由だったのではなかろうか。

 

現代にはそんな空気は全くない。テレビでは、マツコ・デラックスミッツ・マングローブなど女装家が異常なくらい人気者だ。マツコが「いい男に抱かれたい」と言ったって、今や日常茶飯事だ。自由主義の普及とセクシャル・マイノリティへの人権保護が、こうしたタレントを輩出する要因になったのかもしれない。自由とはなんと素晴らしいことか。もし三島が現代に生きていたら、人目を気にせず、誰にも非難されることなく女装して、マツコの席に座っていたのかもしれない。世の中は少しずつ、良い方向に進んでいるのだ。マツコをテレビで見るたびに、『仮面の告白』の主人公への同情は大きくなっていくばかりだ。

 

それにしても、私の知人が抱える性なる秘密は、同情に値しないし、かえって秘密は秘密のままにしておいたほうがよいだろう。

 

仮面の告白 (新潮文庫)
仮面の告白 (新潮文庫)
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三島 由紀夫
新潮社

『科学という考え方』を読む。

エステサロンを経営している。が、自分がエステをするわけではない。人を雇って働いてもらっている。思ったよりも売上げが伸びなくて、毎月赤字だ。かといって焦っても自分でなんとかできるものではないから、半ばスタッフのやる気と営業力に賭けているところがある。株式投資では、お金に稼いでもらい、オーナー業ではスタッフに稼いでもらう。自分で稼ぐ労働賃金以外からもしっかりお金が入ってくる仕組みを作ろうとしたが、世の中そんなにうまくは行かず、おかげで家計は火の車である。それにしてもサロン業はまずかったか。特に、スタッフ同士の内紛には頭を抱えるばかりである。スタッフAとスタッフBは、どちらも積極的にオーナーである私に、今後の店舗運営で同意を求めてくるのだが。

 

価格設定に関して、こんなやりとりがあった。腕に自信のあるAは、とにかく単価を上げたいという。マーケットより低い単価にしているため、お客さんの質が下がってしまう。価格だけ見て初回サービスが安いから予約する。いわゆるお試しが多い。それよりも、単価を上げて、お客さん一人の質を上げた方が、契約にもつながるのだ。一方、自分のお客さんが少ないBは、単価を下げたいという。とにかく、空いている時間が多いのだから、価格を下げてでも来てもらった方が無駄にならない。価格が安くても、全員が低価格だから来店するわけではない。客数が増えれば、母数が増えるのだから契約数も増えるのだ。話を聞くと、なるほどどちらも理にかなっている。こうなると優柔不断の私は、悩んでしまう。もっともらしく聞こえるからだ。そして、どっちも必死にその正当性を主張するのだ。いっそジャンケンで決めたらなどと口に出そうものなら、オーナーの権威は失墜し、熱意あるスタッフが去り、ますます苦境に陥ることに違いない。こうしたジレンマにいつも頭を悩ませられる。自分で考えない人間の典型ではあるまいか。

 

こうした議論は、ビジネスや政治の場はもちろん、日常生活でも起きうる。消費税増税の是非についてもそうだ。賛成派の主張も筋が通っているし、反対派の主張にも納得してしまう。私のように流されやすい人間は、一方の主張を聞けば「たしかに」。片一方の意見を聞けば「なるほど」だ。このよく言えば素直すぎるこの性格を呪うべきか、結局どっちがよいか、正しいかの判断ができないのである。

 

主張によって論理は作れる。つまり論理的=正しさではないのだ。考えてみりゃあ、そりゃそうだ。その主張を通したいのだから、それが納得できる論理を作ればいいのだ。言い訳だって同じ、「自分は悪くない」って思うと無意識に論理を構築していくものだ。

 

『科学という考え方』は講義式でケプラーとか、ニュートンとかアインシュタインといった科学者達が、どのように考えて自然科学の法則や原理を発見したかを教えてくれる。その中に、正しい考え方のヒントみたいなものがちりばめられていた。

 

質量保存の法則、相対性理論慣性の法則…高校の教科書にでも出てくる用語がたっぷり載っていて、かつて物理で3点(100点満点中)をたたき出し、周囲から「長嶋監督」(背番号と同じ)と小馬鹿にされた私にとって厄介な内容であった。しかし昔は昔、大人になれば意外にも面白く感じるものである。しかし、本筋はあくまで相対性理論などの中身ではない。偉大な科学者たちの考え方にある。

 

ノート1:科学という考え方とは

・科学とは、“人間の直観を正していく作業”である。

・自然現象に関して、ある法則・原理を発見する、というよりは「説明」すること。

・人間には見えない事象であっても、それを人間が認識できるレベルに説明する。

・人間の認識という主観と、事実という客観が常に内包されるものが科学である。

 

ノート2:論理的思考とは

・科学的に論理的思考とは、実証あるいは反証できる命題であること。

・自ら立てた仮説や、直観的なひらめきが、データによって正しいか間違っているかを検証する。

・データに論理を合わせる。論理にデータを合わせるのは科学的思考ではない。データの取捨選択を謝ると、思考の道筋が変わってしまう。

・批判・反証こそが、真実にたどり着く一歩である。歴史的にみて何度も法則・原理は塗り替えられた事実がある。

 

ノート3:日常での考え方に関するヒント

・批判に寛容になること。(自分の論理の穴を教えてくれる。)

・相対論的であること。(相手の立場に立って物事を考える想像力が必要。)

※相対性とは、他と比較するではなく、人との立場を変換すること。

 

我々はともすると、自分の論理にあったデータ・論拠を持ち出して自分が正しいとする思考のクセがある。それだと、どの立場でもある程度の論理はできてしまう。そうすると、どっちも引けなくなる。冒頭で話したスタッフAとスタッフBの意見の違いは、そんな感じだ。Aは「自分のエステの技術は相当高いのだから、この単価では自分の価値が落ちる。」Bは「空いている時間が多いから、そこを埋めて、できるだけお客さんをこなしたい。」そうした自分の主張をあたかも正当化するために論理武装をしたようだ。

 

科学的な考え方は、人間の直観を正すこと。そう胆に命じ、客観性と実証性を彼女たちに求めたい。主張する根拠となるデータは何か。そんな事言ったら、おそらく面倒くさいオーナーだなと思われるだろう。では実証性を重視して、半年間ずつ、彼らの仮説を実際にやってみよう。どっちがサロンにとって良いのかこれでわかるかもしれない。最初の仮説で売上が伸びなかったら、次の実験までにお店を畳まなければならない。仮にどちらかの意見が、上手くいったとして、もう一人はおそらく面白くないだろう。今後、お店に非協力的になるかもしれない。うーむ。オーナーとしてのジレンマは容易には解消しない。

 

 

 

『代議制民主主義』を読む。

いよいよ参議院選挙である。自慢じゃないが私は20歳から選挙には必ず行っている。しかしながら、誰に投票するかを真剣に悩んだことはない。惰性で、おそらく大多数が投票するであろう政治家に一票入れるのである。なぜか。どこかで誰がやっても同じだろうと思っているからだ。だったら自分の票が無駄にならず投票されそうな人を選ぶ。今回もそうだ。すでにマスコミが選挙速報とばかりに「自民党単独過半数の勢い」ともう言っちゃっている。ならば、多勢に無勢で自民党に入れときゃ間違いない。それとも結果がわかっている投票になんて行くだけ損だと、投票をボイコットする人も出てくるだろう。投票率が下がっているのも頷ける。

 

政治不信が叫ばれて久しいが、この政治家に対する不信感はどこから来るのだろう。①お金に対する不信感②能力に対する不信感③結果に対する不信感。とにかくメディアの影響が大きいとは思うが、政治家が声をからして美辞麗句を並べて熱弁を振るっている様を見ると興ざめして、彼らのナルシシズムにうんざりしてしまうのである。我々庶民とかけ離れた金銭感覚。課題に対する網羅的な知識のなさ。そして、選挙公約の未達成。こうした資質を選考条件から排除して、私は強烈なインパクトをもつリーダーや、有名人に無条件で投票してしまうのだ。

 

民主主義の欠陥は、どの国でも見られるらしい。そもそも、政治家の資質の問題なのだろうか。『代議制民主主義』は、民主主義が抱える大きなシステム的な問題を明らかにしてくれる。

 

ノート1:委任と責任の連鎖

・代議制民主主義は、有権者を起点として、政治家、官僚に仕事を委ねる。

有権者は政治家に政策決定を委ねる。政治家は官僚に政策の実行を委ねる。

・委ねた人(有権者・政治家)の期待に応えることで責任を果たす。

・この委任の内容と、責任の取り方こそが代議制民主主義の基礎になる。

・元々、政治家は有権者から選ばれているため、同質ととらえられていたが、現在では政治家と有権者には壁が存在する。だから有権者が望む政策が決められない。

・また政策を決定する政治家と、政策を実行する官僚では、専門的な知識に差があって、官僚が上手く政策決定を変更したり、自らが政策を決めてしまったりするケースが増えている。

 

ノート2:代議制民主主義の必要不可欠な要素

・代議制民主主義には二つの重要な要素がある。

自由主義的要素:”政治に関与しようとするエリート間の競争や相互抑制により、人々の自由を最大限保つことを目的とする。”p.115

・民主主義的要素:”社会を構成する有権者の意思が政策決定に反映されることを重視する。”p.116

・この二つの要素の不整合こそが、代議制民主主義を難しくしている。

 

ノート3:自由主義的要素と民主主義的要素

自由主義的要素

・執政制度:行政

・より専門的に課題を解決する。

・エリートの裁量が大きく、民意に配慮しない。

②民主主義的要素

選挙制度:議会運営

・民意をできるだけ拾えるようにする。

 

ノート4:代議制民主主義のパターン

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ノート5:代議制民主主義の欠陥をどう乗り越えるか

・委任と責任の連鎖を強化する。明確な契約関係を作る。

・必要に応じて、選挙改革・行政改革を行っていく。

(上記のマトリックスを移動させていく。)

 

なぜ、政治家がだらしなく見えるのか。「決められない政治」も「決めるすぎる政治」も悪いのか。なぜ、地方議会の存在意義が薄いのか。普段マスコミで取りざたされる政治不信に対する一つの見解が見て取れる。代議制民主主義自体が民主主義を危うくする要素を含んでいることも間違いない。どの組み合わせも最良のものはなく、その都度組み合わせを変えていくしかない。

 

本来、民主主義が未完の政治制度であれば、こんなことは当たり前と割り切ったらよい気もする。最近は住民投票国民投票で民意を示すケースも増えてきている。「俺たちの事は俺たちで決める」的な熱の入ったスローガンも目につく。美しき民主主義への期待だ。社会が抱えている課題は膨大すぎる。それを国民が全部、網羅してみんなで話し合って決めるなんてできるわけない。半年もの間に50近くの法案が提出されているくらい、メディアに載らない政策もたくさんある。自分たちの利益に関わりそうな問題だけ取り上げて「民主主義なんだから自分らで決めさせろや」と息巻いて、あと自分に関係ない法案はすいませんが「決めてもらっていいですか」はなしだ。

 

民意といったって、別に全ての有権者が「社会全体のために」なんて考えちゃいない。そんな奴は偽善者に決まっている。有権者のエゴ・主張がある中で、それを調整して結果的に全体最適になるような政策に落ち着くのが理想だ。そのために、政治家・官僚っていう職業は、より専門的な知識と、どの主張に対しても中立に見ることができる能力とそれを有権者に納得してもらう説明力が必要だと思う。そう考えると、半分くらいの民主主義がよい。半民主主義だ。自分の望みがかなわなくても、これで社会がもっと良くなるみたいな政策ができたら、「あ~、政治家様々」だ。やっぱり政治家になる人の資質だよ。制度の欠陥を補うだけの資質だよ。

 

 

 

 

『税金逃れの衝撃』を読む。

仕事に就いた頃、給料から住民税を引かれていた。住民税は前年の所得に対してかかる税金だから、新卒で入ったその年に取られることはない。実家に返った時、役所で働いていた母に給与明細を見せて、事が発覚した。会社の総務に伝えてお金は戻ってきたが、それ以降給与明細をちゃんと見るようになった。税金の仕組みがわかっていないと、気づかないうちにより多く取られるのではないか。そんな不安が税金のニュースが流れるたびに思う。

 

思えば、毎年それなりの税を納めているのに、サービスとして返ってきたと感じるのはほとんどない。病院で保険がきいて安くなった時くらいだ。逆に、税金払っているのになんだこのサービスは、と嘆きたくなる時の方が多い。最近では夜遅くに運転していただけで警察に呼び止められ、職務質問され、あげく飲酒運転の疑いをかけられる始末。犯罪防止や交通事故防止のために日夜がんばってくれていることはありがたいが、あれだけ車が走っていてなぜ自分。自分の人相と、運の悪さを呪いたくなる。せめて「夜遅くお疲れ様です。」の一言くらいくれよ。筆が進むにつれ、愚痴になってしまった。

 

税の見返りを求めるのは野暮ったいと思うが、できることなら価値を得られないものにはびた一文払いたくない。いかに払わずに自分のお金にできるのか。パナマ文書の発覚で、避難を浴びている租税回避とはどうやって行われるのか。そんな興味から手に取ったのは『税金逃れの衝撃』である。

 

ノート1:租税回避が可能な理由

  • 租税条約:他国の税制に口出しできない。主権国家の権利。法人税なし、源泉所得税ゼロの国がある限り、租税回避はできる。
  • 租税法律主義の採用:法律にしたがって税を徴収すること。たとえ租税回避の意図が明確でも、法律に抵触しなければ脱税とはいえない。法の抜け穴を利用される。

※税金逃れの意図があったと認識されても、被告が数日の差で海外生活が長いとの理由で課税が認められないという判決もある。

  • 移動の自由:税率を高くすると、移住、移転、国籍変更に結びつく。多国籍企業は、法人税が安いところに拠点を移す。

 

ノート2:租税回避が可能になる条件

  • 租税回避地:無税もしくは著しく低い課税の国や地域。資本の流動性を高めるには税がないほうがよい。
  • 信託:ペーパーカンパニー(トンネル会社)を作成する場合、登録代理人に任せてもOK。誰かにやってもらえる。自分の名前が出てこない。
  • 秘密性:絶対に個人の特定をさせない秘密口座。スイスなどでは国家政策として銀行員にクライアントの秘密保持を徹底させている。

ノート3:租税回避のプロセス(Googleの事例)

 

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ノート4:租税回避を防ぐには

  • グローバルタックスの設定:世界各国で個人のお金の流れを把握して、課税をする体制作り。要は、租税条約の国家の租税権を棚上げしましょうという話。
  • 法人税所得税の累進性の強化。多くもらっている人からもっと多く税金を取りましょうという話。 

 

やっぱり租税回避はできるのだ、合法的に。そして租税回避を促しているのは先進国なのだ、確信犯的に。先進国の金融機関や法律事務所がクライアントのお金を守るために法律の穴を見つけてプロセスを作ってくれる。それに対して、先進国政府は有効な手段を出していない。社会福祉も大事だが、経済の活性化も大事だから。

 

果たして、なぜにこうも富裕層は税金を払いたくないのか。①自分の稼いだ金を政府に取られたくない。②収益を増やして従業員、顧客に返したい。③政府に使ってもらうより、自分たちで社会のために使いたい。お金持ちの心理はわからないが、②③が多数であることを期待したい。い。いや、そうに決まっている。世の中のために人一倍働いて手にした富なのだから。

 

お金の純粋な価値を高めるなら、政府に使ってもらったほうがいいのか、それとも開発や投資に回したほうがいいのか。私は断然に後者を支持する。もちろん税金を全否定するつもりはない。警察による治安維持とか、道路づくりとか、明らかに個人ではとても手に負えないものはみんなでお金出しあって作ろうよという公共心もしっかり持ち合わせている。

 

ただどうしても、自分の生活が豊かになったと感じる時は、政府のマイナンバー発行よりLINEのアカウントを手に入れたときだし、認可保育園に娘を入れるときより、家事をしてくれるルンバを購入するときなのだ。

 

今国が背負っている借金は1000兆円以上。もはや私一人に対して1000万以上も借金してやがる。足りないからもう少し払ってください。とは何事か。ちゃんと使ってくれないのなら、世のために必死で働いている企業に堂々と使ってもらいたい。無理して企業から、富裕層から搾り取る策を考えるよりも、ちょっとでも公共サービスの不便を我慢してでも彼らの未来のサービスに期待したい。社会保障のためのお金が足りない?だったら、ちまちま消費税で徴収するのじゃなくて、各々が貯金を削って医療費払ってくださいとお願いしてくれ。ある程度蓄えがあるだろうに。貯金がなくなった順番に生活保護を受ければよろしい。

 

政府に金がないのに、あれもこれもとお願いするのも酷だ。結局ないのだから、金も能力も。

 

読後、租税回避について理解が深まったどころか、お国への文句になってしまった。お金は理性を破壊していく。

 

『中東複合危機から第三次世界大戦へ』を読む。

仕事が一段落ついたら海外旅行に行きたいと思っていたのに。最近の中東情勢の悪化と欧米でのテロ事件が、ビビり屋で小心者の私の気持ちを萎えさせる。旅行中にイスラム過激派なる連中に拉致されて、オレンジ色の服を着させられて、首にナイフを突きつけられ、日本政府に身代金を払うように涙ながらに哀願する妄想が、海外旅行という誰もが金と時間さえあれば謳歌できる楽しみを不安なものにしてしまうのである。

 

一体全体、今中東・イスラム世界はどうなっているのか。私は、いつかは安心してトルコあたりを周遊できる望みを持ちつつ、中東情勢についての本を探した。目についたのは【第三次世界大戦へ】の文字。ああ、もはや絶望的だ。私がトルコに行ける日は来ないような気がする。世界戦争の発端になりうる地域はシリア。トルコの隣国ではないか。

 

ノート1:シリア内戦は三つ巴の戦い

① アサド政権(シーア派イスラム

② 反政府軍自由シリア軍

③ IS(イスラム国:スンナ派過激思想)

  • 国際的なテロ集団。今や世界共通の敵とされている。
  • イラク北部とシリアを拠点にしたイスラム国家樹立。(勝手にしてる)
  • ①②内戦の混乱に乗じて勢力を拡大中。

 

ノート2:内戦の本質

① 世界規模に影響

② 民主国家・国民国家の破綻

③ 自由主義・民主主義の限界

 独裁国家の崩壊→内部の権力争い→政治の混乱→テロ・武力組織の登場→打倒テロという大義名分で大国が介入→権威主義の復活→人権抑圧・民主主義の否定

 

ノート3:覇権争いをする大国

① ロシア:プーチン大統領

② トルコ:エルドアン大統領

③ イラン:ハーメイニー最高指導者

  •  シーア派イスラム革命の輸出:シリア・イラクにまたがるシーア派帝国を作る。
  • シーア派のアサド政権をサポート:イランの革命防衛軍がアサド政権側で戦っている。アサド政権維持のため、ロシアとも協調。
  • ウィーン合意で、核開発をめぐる国際的な孤立が解消。石油・天然ガスが豊富に採掘できる資源大国であり、海外から見ても魅力的な市場。

 

読んでいて気になったのは、欧米のプレゼンスの低下である。もはや中東情勢は、かつて権勢を誇ったアメリカやヨーロッパ列強の影が薄れ、歴史的栄光を取り戻すべく権威主義を振りかざすオスマン帝国・ペルシア帝国・ロシア帝国の覇権争いへと発展している。

 

欧米が提唱してきた民主主義・自由主義の概念は失敗だったのか。自分の思想・文化・宗教・生き方が相手のそれを否定することになるという皮肉。それによって、命が脅かされることになる。それだったら自由は制限してもいいから、命を守ってくれる強い国家が欲しいということになる。ロックやホッブスが言っていたのはこのことだったのか。結局、人間は自由を手に入れると争うから、上からガツンと、「やめなさい」と言ってくれるパターナリズム的な権威に頼らざるを得ない。

 

いっそのこと帝国主義を主張する3国でもう一度、この地域の線引きをしたらよろしい。トルコの周辺にはスンナ派イスラムの自治を作る。イラク南部にはシーア派が暮らせる自治区を作る。真ん中あたりにはクルド人を全員集めて、独立国を作ってあげる。資源が豊富な地域は、3国で分割する。難民として人がこれだけ動いているのだから、人を動かすのはさほど難しくないだろう。同質な集団同士である一カ所に集まって暮らせる場所を提供すべきだ。すぐには、自立した国家なんか作れるわけ無いのだから、帝国の属国になって生活を保障してもらうのがよい。

 

もしくは、何個か全く違う国を作って行きたい国を人民に決めさせるのはどうだろう。Aはイスラム法で、自由が少なくて、でも資源があります。Bはスンナ派イスラムでも比較的自由度は高いです。Cは宗教は関係なく入れます。しかもヨーロッパ型の自由度です。その代わり、権利をめぐって争いは耐えません。さあどこに行きたいですか。魅力的でない国や組織は、人が住もうと思わないので自滅するだろう。色んな国の形を提示して、人民に選んでもらう。こっちの案も悪くない。これは3帝国だけだと無理だから、マーケット感覚の優れた欧米がリードしてもらったらいい。

 

欧米型の自由主義・民主主義で育った私としては、自由を愛しているし、自分の選択がすべてだと思っている。ただ意見の違う人を正そうと思わず、おのおのが邪魔せずに自分らしく生きられたらそれでいい。そうした道を探ってもらいたいものだ。