ばんちゃんの読書日記~新書・文庫篇~

読んだ本の感想や勉強になったことをメモするための読書日記です。

日本の非効率性について 『イギリス人アナリスト日本の国宝を守る』を読む。

著者のデービッド・アトキンソンは元ゴールドマンサックスのアナリストで、現小西美術工藝社の代表取締役だ。オックスフォード大学時代に日本について勉強をしていた縁もあってゴールドマンサックス時代に日本の担当になった。バブル後の不良債権処理に日本の銀行と共に取り組んできた経験をもとに、日本人・日本企業の問題点を鋭く指摘する。

 

彼の痛烈な批判の対象になっているのは経営者だ。日本人の勤勉さ、心遣いなどには尊敬の念を持ち、自身も日本人が好きであることを強調している。日本の経営者の質がより高くなることで、日本の経済はもっと成長するという。日本人は労働者が勤勉で優秀だから経営者が何もしなくても回っている。一方、アメリカは労働者の質が悪い分、経営者の質が非常に高い。超高齢化社会で成長し続けるには、経営者の仕事に対する考えや行動を変えていかなければならない。

 

日本の経済の効率の悪さは、世界の先進国の中でもトップレベルだ。非効率の根本的な原因は「数字に基づいた分析と、細かい改善をしない」ことだ。感情論で意思決定をして、その結論を裏付ける数字を意図的に使う。シンプルアンサーが好きで、アベノミクスで経済が良くなる・悪くなるといった単純明快な議論しかしない。やることが明確になったとしても、手続きが面倒だとか、前例がないという理由をつけてやらない。こうした日本人の特徴が非効率を招いている。

 

一方で、日本はすごい国だという論調には喜んで食いつく。おもてなしの国だ、高い技術がある国だといった調子で、その主張にあうデータを並べて自己満足している。この自己満足が時に、相手側の都合を無視したサービスや営業になっていることもありうる。手続きの完璧さとか、カスタマーへの要求(~禁止です、~を控えてください、など)が非効率の原因になっている。

 

 

 

私なんか特に外国人に弱い人間だ。本能的に欧米の人の発言は鵜呑みにする方だ。劣等感があるのだろうか。英語の問題もあると思うが、言われると受け入れてしまいがちだ。誰か他の人に指摘されるほうが、仲間内で言い合うよりも素直に聞けるという気がする。

 

経営者への提言のように書かれていたが、私のような(私も一応経営者か)一般人にも当てはまると思う。そもそも日本人は自分の意見を否定されるのをものすごく嫌う気がする。仕事でちょっと指摘すると、すぐ膨れた顔になる従業員を思い出す。「別に、あなたの人格を否定してるんじゃないんだが」とフォローを入れても終始不機嫌な始末。

 

自分の意見が正しくて、それを正当化する材料だけを用意する。私もこれに当てはまっちゃっている。自分の都合に合わせて論理をつくるのは得意だ。

 

これはやはり恐ろしい。要は、もう考えることをしたくないという事の表れだろう。売上が伸びないのは、お客さんの質が悪いからだ。だからお客さんの質を良くしましょう。いやちょっと待て、本当に売上が伸びないのはお客さんの質が問題なのか?どの、いつの、何の売上が悪いのか?こうした議論にまで発展しない。だってスタッフは、原因は絶対「お客さんの質」だと言い切るのだ。そして客質が悪かった事例だけを延々と話す。彼女にとっては面倒くさいのだ、そこまで考えるのが。

 

商売でも私生活でも政治でも、結論ありきで話が進むことが多い気がする。どうしたら彼の提言する「数字に基づいた分析と、細かい改善」ができるようになるのだろうか。二つの事を心がけてみようと思う。一つは、自省すること。もう一つは、疑問を持つこと。

 

何かが起きたとき、自分でまず反省をする。自分のどこが良くなかったか。何か議論をするとき、立場をすぐに明確にせず質問を作ってみる。何が問題なのか、議論の目的は何なのか。

 

いつもやっているつもりだが、考える前に答えを持っている場合が多い。デービット・アトキンソン氏の鋭い指摘にドキッとしてしまった。これを身内に言われたら、「はぁ、おまえに言われたくないわ」と吠えるだろうが、彼はゴールドマンサックスのアナリスト。世界的に有名な投資銀行のアナリストだもの、数字に基づく分析の力を語られたら、権威・肩書きに弱い私などすぐに受け入れるだろう。

 

 

静寂が恋しい『沈黙すればするほど人は豊かになる』を読む。

フランスのラ・グランド・シャルトルーズ修道院はアルプスの麓にひっそりと存在している。モン・サン・ミッシェル修道院など、時代にあわせて観光などビジネスを取り入れその存続をはかってきた修道院とは異なり、この修道院では900年間、修道士のバイブルである『戒律』に従って、俗世間とは隔離された生活を営んできた。

 

祈り・労働・読書、1日ですべきことはたったこれだけ。修道士の修業の場でもありながら、衣・食・住に対する配慮がされていて、仏教の修行僧と比較すれば、厳しくない暮らしだと言える。しかし、入所して1年も経たずして辞めていく修道士が多かったため、現在は入所制限を設けている。

 

なぜか?それは孤独に耐えられないからだ。1日、一人部屋で黙々と祈り・労働・読書に勤しみ、他者とのつながりがない。唯一、普通の会話ができるのは日曜日のミサの後の数時間である。それ以外の時間は、たった一人、神と向き合って生活するのだ。インターネットの私用も許されなければ、テレビ・ラジオももちろんない。こうした生活を幸せに感じるには、修道士でさえ数年かかるという。この沈黙こそが修行の厳しさであり、これを乗り越えて初めて人生を悟れるといえる。

 

いつも感じることだが、確かに現代はうるさい。夜だって何かの音がする。自販機のヴーンという音だったり、車のエンジンの音だったり。静寂になれる場所はまずないだろう。なんといってもスマホやPCを手に入れてしまった私たちには、自分だけの世界はまず作れまい。寝る前ですらヤフーニュースをチェックするくらいだ。夜中でも平気で友達からLINEがくる。情報すらうるさいくらい生活につきまとってくる。ゆっくり一人思索にふける時間なんてない。

 

一方で、そうした生活がないと寂しい。人間はやっぱり孤独に弱い。誰かといたい。誰かとつながっていたい。これは人間の性だ。私なんか、一人の時だってぶつぶつしゃべっている。本当は静けさが怖いのだ。修道士は、この人間の弱さを克服するために孤独を選んでいるように思える。人間は人と人のつながり。修道士は人と神のつながり。神とつながれたら、それは幸せだろう。心も豊かになること間違いない。

 

もちろん、修道士みたいな生活に憧れることはないが、もう少しだけ静かな暮らしはしたいと思う。自分と向き合う時間というか、全てをシャットアウトして自分だけがいる時間だ。仕事でも、家でも誰かと何かを話している。ネット上ですら話している。たまには、全員無視してどこかへ行きたいと思う。でも静謐を保てる場所なんか、本当にお寺くらいだろう。一人旅や、寺への住み込みが人気なのがわかった気がした。

 

できたら暮らしの中で、静寂の時間を作れるようにしたい。いつもなら大音量のBGMをかけながら、ぶつぶつ独りごちて日記を書くのだが、今夜はスズムシの音色だけが聞こえる環境に身を置いてみる。

 

 

人間の不可解さ『月と六ペンス』を読む。

昔から大好きだった布袋寅泰のライブチケットを手に入れた。ほとんど音楽は買わないけれど、彼の作品は毎回買っている。中学生の時、友達のお兄ちゃんが貸してくれたCDにはまって、それ以来20年ファンだ。ギターを弾く姿があんなに画になるアーティストはいない。唯一無二の存在だ。

 

彼の初期の作品で『BEAT EMOTION』という曲がある。その歌詞に「まずまずの人生をこのまま送るか、二度とない人生を求め続けるか」という一節が好きだ。人間やっぱり、なんだかんだで落ち着くところに落ち着くものだ。なかなかに普通の暮らしに背を向けて自分の生き方を求めていくなんてできっこない。そういうことができるのはきっと彼のようなアーティストなんだろう。地位や名声よりも”自分の考える美しさ”のために生きようとするのだ。それが芸術なのかもしれない。どこか憧れる。

 

人間は不可解だ。人間を合理的に説明できると考え、普遍的な価値観をはめ込んでみるが、なかなかそうは行かない。いつだって常軌から外れることをする人間はいる。だからこそ奇跡が生まれ、芸術が生まれるのだろう。モームの『月と六ペンス』を読んでそう感じた。

 

ノート:ざっくりとあらすじ

・イギリス人作家(一人称で語られる)が、画家ストリックランドの奇妙な半生を描く。

・ストリックランドはロンドンで商売をしていた。結構な金持ちで奥さんも「女性は

働かず家を守る」的な女性だった。

・ある日突然、ストリックランドは家をでる。奥さんには新しい女ができたと言って。

・実は駆け落ちは見せかけで、ストリックランドはフランス・パリで画家として生活を始める。

・働かず、絵だけを描き続けるが、別にだれに評価されたいでもなく、貧困になり病気で死にかけるまでひたすら絵を描き続ける。

・彼の作品に心を奪われた、オランダ人画家夫妻が何かと面倒を見てくれていたにもかかわらず、その画家の奥さんを寝取って最終的に自殺にまで追い込む。

・その後彼は、タヒチに移住し原住民と森の中で生活し、幻想的な自然の神秘の中で、絵を描き続ける。自分の死が近くなると、家の壁全体に絵を描きはじめ、完成とともに亡くなる。しかし完成された大作は彼の遺言により家ごと燃やされてしまった。

・死後、彼の作品は評価され、ものすごい高値で売られることになる。

 

とにかく彼の興味は自分の思う美しさを探究する。この一点につきる。それ以外には何にも興味がない。普通は、「世間がどう思うと勝手だ」と言ったって、心の中ではやっぱり気にするもんだが、彼は本当に純粋に世間の風を屁とも思わないらしい。

 

そのくせ、世間が彼を放っておかないことをいいことに、周りを巻き込みながら自由気ままに絵だけを描いて生きていくのである。彼は本当に、有名な画家になりたいと思ったのではなく、純粋に自分の見る美しさを表現したかった。ここまでピュアな気持ちで生きて行けたら、どんなに大変な目に遭っても、苦悩の果てに光が見えるのだろう。

 

「普通はこうするだろうよ」と自分の理屈で展開を読んでいくと、ストリックランドの行動がますます理解できない。あらためて人間は合理的ではないなと思わざるを得ない。だからこそ人を魅了する力があるのだろう。

 

アーティストの凄さというか、人間が芸術を産む核というか。そんなことを考えてしまった。あこがれの布袋寅泰は奇しくもロンドンに住んでいる。この作品を読みながら、新しいアルバムを聞き入る夏の夜であった。

 

近現代史を学ぶ意味『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を読む。

間に合った。この本は終戦の日までに読み終えたいと思っていた。めちゃめちゃ面白かった。改めて歴史は奥が深いと思った。

 

ちまたでは、歴史ブームだ。書店に行くと世界史、日本史の教科書がエンドに陳列されている。よく見てみると高校時代に使った教科書じゃないか。山川出版の世界史Bだ。大学受験では何度も読み返して暗記に励んだものだ。

 

それが今やビジネスマンに読まれているらしい。教養ブームの火付け役、佐藤優氏推薦の帯がやたらと目立つ。角刈りでごっつい体躯の佐藤氏がにらみをきかした写真は迫力があり、まさに知識人だ。世界の潮流を読むにはやはり歴史は必須科目なのだろうか。

 

歴史をどう今に活かすのか。これが歴史のテーマなのかなと思う。過去の失敗から学んだ知恵を現代に活かす。なんて未来志向な学問なのだろう。近現代史は戦争の歴史だ。これを学ぶということは言わずもがなだろう。

 

終戦の日。「深い反省」をもとに悲劇は繰り返すまいとの誓いを、日本国民が心に誓う日である。しかしながら、悲惨な戦争を二度と繰り返さないと願ったところで、現実は冷酷にも「そりゃあ、あんた甘っちょろい考えだよ」と諭すのである。お隣、中華人民共和国による度重なる領土侵犯。新しい戦争の形をしたイスラム国によるテロリズム。暴走国家、北朝鮮のミサイル発射。正直者は馬鹿を見るではないが、毎年毎年、不戦の誓いを立てているのに、日本人は、いつも戦争の危機にさらされているのである。

 

そんな中で、政府による安全保障関連法案が議会で通り、憲法九条さえも解釈次第で集団的自衛権も使えますということになった。

 

こうした状況の中で、日本はどのように国際社会を生きていくのだろうか。それを歴史から学ばなければならないのであろう。歴史問題について聞かれた政治家はたいてい、「歴史を客観的に見なければいけない」と言う。しかしながら歴史を客観的にかつ科学的に検証することは非常に難しい。なぜなら歴史は一つではないからだ。

 

第一に、国によって過去の出来事のとらえ方、立場が違う。中国はいわば被害者だ。19世紀から植民地化されて、最終的には、ずっと小っちゃい島国と馬鹿にしていた日本にやられた。アメリカは先勝国である。戦争は勝った国が歴史を作る特権を持っている。先勝国は敗戦国の国の形さえ変えることができるのである。それぞれの立場で歴史を見たら、まったく違うものになるのは当たり前だ。

 

第二に、人間は「自分の仮説は正しい」と思い込み、自分の主張の都合の良いデータのみを持ち出す。これは前回、『学びとは何か』で学習した「スキーマ」の問題だ。自分のスキーマを修正できない限り、反証に対して素直に受け入れることはできない。南京大虐殺で「100万人以上が犠牲になった」との主張に、「いやいや当時100万人もいなかったし」といって虐殺の事実ではなく虐殺の数に主張をすり替える。なかなか歴史問題が解決しない原因はそれぞれの「スキーマ」によるものだろう。これは歴史家でも難しいということだ。

 

完全に客観的な史実が抽出できないのであれば、我々素人が歴史を学ぶ意味はあるのだろうか。どっちにしろ、何かバイアスや立場が含まれているのであれば、どういう視点で「歴史を学ぶのか」が大事になってくる。国際社会で日本が生きていくための処世術、つまりこの混乱の世の中を上手く生き抜くために学ぶとしてみればどうだろう。

 

その視点で考えると「太平洋戦争は侵略戦争ではなく防衛戦争だ」という主張は、あまり国際社会との共存にとって好ましくない。中国と韓国を刺激するから。日本は植民地をして大勢の無辜の人々を殺しましたという自虐的な歴史観は、相手につけ込まれる。そういうことではなくて、戦争の回避のプロセスとか、戦争以外の選択肢とか、満州が欲しかった理由とか、交渉はどこで躓いたとか、そういった事を学ぶのがよいだろう。それを知るには、相手の状況とかも理解しなければならない。

 

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』はまさにこういう本だった。日本の近現代史を高校生への講義形式で日清戦争から太平洋戦争までを網羅していく。色んな切り口で、戦争を学べるので、解釈も考え方も多面的。そこから納得いく答えを自分でひねり出す感じがとても新鮮。こんな授業があったら、歴史にたいする興味も変わったのだろうなと思う。

 

『学びとは何か』を読む。

今になって始まったことではないが、英語が苦手だ。といっても英語の成績は優秀だった。センター試験だっていい点とれていた。TOEICTOEFLだってそんなに悪くはない。単語も結構知っているほうだ。でもなぜか話せない。話す前に相手が何言っているかわからないのである。相手を理解できないなんて致命的だ。何度も聞き返すと、「おまえ耳鼻科行けよ」と突っ込みが入るのではないかとおびえてしまう。結局いつもうまく愛想笑いでごまかしてきた。それにもほとほと嫌気がさして、最近では「話しかけるな」オーラを全開に、あたかもあなたには興味ありませんと言わんばかりの無視を決めてみせるのである。

 

思えば、これまで色んなことを学んできた。小学校から大学院まで数えれば約20年、学習の機会に恵まれていた。社会人になってからも資格を取るために勉強もした。これだけの時間を費やしたにもかかわらず、自分が自信をもって熟達したものを主張できない。決して謙遜しているのではない。本当にないのだ。これは一体どういうことなのか。何もできないのでもない。秀でるものがないのだ。これから40代を迎えるにはあまりにも寂しい自分の持ち札に焦燥している。

 

『学びとは何か』はまさにこの悩める中年に希望と絶望を味わわせてくれる良書だ。特にビジネスマンになってから、「学校の知識なんか役に立たない」、「論理的思考や地頭がモノを言うのだ」と教えられてきた。勉強ばっかりしているやつは頭でっかちだとも揶揄される。実際に学歴と営業成績には相関関係は一切ない。一時は、この考えにどっぷりはまってしまい余計な知識を身につけずに、とにかく地頭を鍛えなくてはと自己啓発本を読み漁っていたが、この知識という概念が示す大きな力を見くびっていたようだ。

 

ノート1:記憶について

・記憶は情報を脳内に貯蔵すること。記憶の達人はもともと関係のない情報をうまく関連づけて、大きなまとまりとして新しい情報を覚えていく。

・覚えることは訓練によって習得できる技術である。

・自分にとって必要な情報が何かをわかっている場合、情報の取捨選択ができる。すべてを記憶する必要もない。

 

ノート2:知識について 重要な『スキーマ』という概念

スキーマとは自分がすでに経験したり学んだりした知識を使って新しい情報を理解していくことである。

・知識は客観的事実ではなく、自分のスキーマを通して解釈される世界である。

・入ってくる情報を自分にとって意味のあるものにすることで、記憶することを助ける。

・背景を知らない内容を勉強することが難しい理由は、スキーマが構築されていないからである。

 

ノート3:知識システムの構築=スキーマの構築

・なぜ子供は教えられなくても、母語を話せるようになるのか。

・それは、子供の言語習得は、知識システムの構築だからだ。

・誰に教わるでもなく自分で手探りでシステムを構築していくプロセスが、生きた知識を作る。

・子供は、大人の使っている言葉を自分なりに覚えて使ってを繰り返し、覚えた言葉を使って新しい言葉を覚える。その過程で自分に不要な情報を捨てていく。例えば、日本語であればLとRの発音の違いは識別する必要がないので、聞き取らなくてもよいと判断される。

・大人はこれができない。すでに知っている日本語の単語と同じ意味を探そうとする。英語学習に日本語の知識スキーマが入り込んでいるので、知識システムを構築できない。

 

ノート4:スキーマの思い込みを修正する。

スキーマは「思い込み」である。

・それを直すのは難しい。

・しかし、誤ったスキーマを作らないことも不可能である。

スキーマを作るのは知識の習得にとって一番大事だから。

・重要なのは「誤ったスキーマ」を修正すること。

・自分の論理が通用しなかったとき、その矛盾や誤りに気づけるか。

 

ノート5:熟達への道

・模倣による学習が必要である。ミラーニューロンシステム(人が他人の行動を観察するときその行動を模倣し、自分の中でなぞるような脳の動き)

・生きた知識を得るには自分で発見するプロセスが必要だ。

・知識の過程は絶対主義(自分の知識=事実ととらえる)から、相対主義(知識=主観であり違う見方があることを知る)、そして評価主義(多様な見方のなかでどれが確からしいかを評価する)へと進んでいくことが望ましい。

・絶対主義は幼児期に、相対主義は大人になれば身につく。しかし評価主義にたどり着くのは難しい。これが熟達の最終形態だ。

 

自分に足りていないのは3つだ。まず、のめり込む力。これぞ自分のテーマだというのが見つけられていない。有名なアスリートなどは幼少期からそのスポーツにのめり込み、寝食を忘れて取り組んでこそ熟達したその道のプロになった。時間を気にせずに取り組んだことのあるものを私は知らない。明日は朝早いから、「この辺で切り上げよう」が口癖だ。大好きな読書だってそうなのに、そんなもの果たして見つかるのだろうか。二つ目は集中力だ。私はちょっとの誘惑にも屈する男だ。30分タイマーを図って問題を解いたことがあるが、そのときも途中でお菓子をとりに席を外した。たった30分さえもまともに座っていられないのだから、多動性障害と言われても仕方がない。そして、最後に持続力だ。ミーハーなのである。ブームのモノにはすぐ乗っかるほうだ。統計学がブームと聞いたらすぐ勉強して統計学検定を取った。でも、取ったら終わり。すでに興味は失せていた。このブログだってそうだ。いつ飽きが来るかわからない。

 

結局、学びとは誰かに教わるのではなく、自分で発見することなのだ。自分が興味を持って自分で仮説を立てて検証して体験して初めて理解する。このプロセスの中で、自分のスキーマが生まれる。そして自分なりの知識システムが構築されていく。これが生きた知識だ。私のように死んだ知識がたまっていくと、ろくなことがない。知識を自分の体験に関連づけられないと、それは単なる情報であって、本当の学びにはならないのである。

 

今からでも遅くはない。より今やっていることをどこまで極められるかに挑戦してみようではないか。このブログも一つの試金石だ。

 

『保守主義とは何か』を読む。

世界各国で外国人排斥の動きが高まっている。アメリカの大統領候補ドナルド・トランプはアメリカ第一主義を掲げ、「偉大なアメリカを取り戻す」と息巻いている。古き良きアメリカを取り戻してくれると期待する白人層からの支持は絶大だ。メキシコとの国境に壁を作るんだそうだ。フランスではルペン党首率いる国民戦線の支持率も急上昇。テロへの非難から移民の抑制・排斥の訴えが、フランスの右派(保守層)を取り込んで勢力を拡大している。フランス革命が生んだ自由や平等といった価値観は以前にもまして普及してきたはずなのに、差別的非人道的な主張が支持されるのはなぜだろうか。

 

保守的な動きは政治だけにとどまらない。ネットの登場で便利になったサービスに、ノーを訴える人達がいる。ウーバーに反対するタクシー業界。エアービーアンドビーに反対するホテルなど。テクノロジーの発展によってより良い社会が実現するはずなのに、利益を失ってしまう立場にいる集団は断固として進歩に反対していく。伝統・文化・歴史を守らなければならない、というのだ。

 

普遍的な価値観、科学的な革新に断固として反対していく人達は、はたして自分の利益だけを考えて保守を名乗るのだろうか。社会が不安定な時ほど、保守への支持は高くなると誰かが言っていたが、現代社会は10年前よりも格段に進歩しているのに彼らは何が不満なのだろうか。

 

よく新聞やニュースで目にする「保守主義」の定義について考えてみる。保守=後ろ向きな考えではないはずだが、感覚的にそんな印象だ。何か自分に不都合なことが起きたときに、その理由として文化・伝統・歴史などを出して言い訳しているように聞こえて仕方がない。だから自分は保守的かといわれると、違うということにしている。感覚的にしか保守を感じられない。その感覚的なものが、より明確になれば私の頭もスッキリするだろうし、実は私は保守的な人間なのかもしれない。

 

ノート1:エドマンド・バークの保守の定義

・具体的な制度や慣習を保守しようとする。

・そうした制度や慣習が歴史の中で培われたと認識している。

・普遍的な価値よりも、個人の自由を維持しようとする。

民主化を前提としながら、秩序ある漸進的改革を求める。

 

 ノート2:フランス革命への反対

・革命は民主的ではなく、急進的な改革である。

・急激な変化は、歴史の断絶であり、国のベースとなる制度や慣習を破壊する。

・制度や慣習は長い歴史の中で、改革を繰り返しながら培われた人間の英知である。 

・伝統や文化を見つめ直し、その時代にあった新しい制度を構築すべきである。

エドマンド・バークはこの点において、イギリスの名誉革命を賞賛している。

 

 ノート3:社会主義への批判

ハイエクが批判したのは、国家の役割の増加ではなく、集産主義にあった。

・集産主義の国家では、”民間企業の廃止”・”私有の撤廃”・”計画経済の創設”が行われる。 

・背景には、人間を一般化し、単一の価値体系が存在することを前提とした思想があった。

・全員が単一の目的を追う社会ではなく、個人が自己の目的を選択できる社会を作る(自由主義思想)。単なる競争による市場の活性化ではない。

 

ノート4:大きな政府への批判

ミルトン・フリードマンの『選択の自由』が大きな政府の障害を説く。

・政府の役割が増えることで、特殊利益が増えるという考え方。

・例えば、高齢者への医療費負担を減らす。そうすると、高齢者という特定の人の利益が生まれる。政府は高齢者が本来負担すべき費用を、それ以外の人から徴収する(税金という形で)。

・一度、特殊利益を得ると、利益自体が自己目的化するのでなかなか削ったり、やめたりできない。

・そうして最終的に一般利益の損につながる。

 

ノート5:日本の保守主義について

・日本の保守思想は曖昧である。

丸山眞男:日本には座標軸が欠如している。色んな文化・思想を取り入れてきた。

・にもかかわらず、それが蓄積されず意識の底にあって「突発的に」しか思い出されない。

福田恆存:日本の歴史を貫く思想的な連続性が欠如している。

・日本の保守政治には①吉田ドクトリン:経済成長・反共と②岸信介:戦後のシステムへの反発という二つの流れがある。

 

保守主義というのは、合理主義による人間の無条件の進歩に反対の立場である。啓蒙思想によって近代ヨーロッパは、人間の理性への礼賛・合理主義に邁進する。確かに、人間の理性や科学の進歩は人類をこの上なく豊かにした。しかし、一方で大きな戦争を2度も経験し、いまだに貧富の差はなくならないし、争いも絶えない。やっぱりそこには、人間の理性には限界があることを認めなければならない。精神性・心・慣習・歴史など、そうした部分も考慮しなければならない、というのが保守の考え方のようだ。

 

この考えに基づけば、私も保守主義だ。なんとなく、誰もが”人間の理性の限界”は認めているだろう。もう、このご時世、人間万能主義なんて誰も思ってない。日本のみならず世界で進歩主義(左といわれる人達)の勢いが陰っている背景には、人間は合理的に動かないという事がわかってきたからだろう。

 

だから、今後は保守主義の時代になる。問題はそれがどこまで極端かということ。宗教への依存が強くなると、原理主義くらいまで過激になるだろうし、自国民の歴史・文化にアイデンティティを求めすぎると、外国人排斥や人種差別につながるし。何事も中庸がベスト。エドマンド・バークが言うように、その社会の制度や慣習をベースに漸進的に世の中を変えていくことが正しい気がする。

 

『感情的にならない話し方』を読む。

また、妻と喧嘩してしまった。もう、怒り出したら止まらない。法廷ドラマ「リーガルハイ」の古御門先生みたいに一方的にまくし立て、相手の話は全く聞かない、反論の余地も与えない。そして、最後はイヤミな顔でトドメを刺す。するとどうなるか。決まって右手が飛んでくる。最近はパーでもない。げんこつが飛んでくるのだ。1歳になった娘は何度となくこの修羅場を目撃している。その時の娘の潤んだ目が忘れられない。喧嘩するたびに、どちらが悪いという話になるわけでなく、娘の前では喧嘩はやめようという、条件付きの休戦協定が暗黙に結ばれるのである。

 

きっかけは本当に些細なことが多い。洗濯物をしっかりしわ伸ばしして干してないだの、台ふきでテーブル拭いたあと、フキンを乾かさないだの、出した物を片付けないだの。姑か、というほどイヤミに聞こえる。こっちとしては、そんな気は無いのだが、「まったく雑なんだから」といわれると、人格を否定されているようでイラッとする。この起きてしまった事象について、注意するならまだしも、帰納法を使って私を「こういう人間」と結論づけるのが気に入らない。自分が感情的にならないのに、相手がイライラして突っかかってくるケースが多い。大人の対応で涼しい顔で、なだめようとするが、槍のような鋭利な言葉で、人の気にするところを言ってくるので、最後はこっちもヒートアップだ。

 

毎回、喧嘩のあとの徒労感は半端ではなく、時間の無駄だ。そして何より娘が可哀想だ。両親の喧嘩は成長にどんな悪影響を及ぼすのだろうか。屈折した大人に成長してもらいたくはない。より健全な夫婦関係を築けないのかと思い手に取ったのが『感情的にならない話し方』だ。著者の和田氏には、大学受験の時に勉強法の本でお世話になった。まさか、15年以上たって、再びお世話になるとは。しかも受験よりも厳しい夫婦生活への指南を受けるとは。

 

ノート1:3つの基本

・態度や行動に表さない。とはいっても感情を抑えることが、感情的にならない話し方ではない。穏やかに、誠実に話す。

・リラックスして話す。怒りが頂点に達していると、声を荒げたり、拳に力が入ったり、やたら早口になったりする。だから、緊張を緩めて話す。

・話の目的を忘れない。ヒートアップすると、結局何のために話をしていたのかがわからなくなる。話を元に戻すことが大切。

 

・大事なところ、譲れないところ、自分が信じていることなら、その主張に感情を入れて話すべき。

 

ノート2:認知的成熟度を身につける

・他の考え方もある、と理解する。自分の考えが全てと思わない。

・意見には反対してもよいが、一旦、受け入れてみる。とりあえず、「言いたいことはわかった」と言ってみる。

・曖昧であることを恐れない。すぐに白黒ハッキリする必要はない。

 

ノート3:心の狭さを作る2つの理由

  • 「人間は誰もが間違える」ことを認められない。

認知的不協和:信じていた宗教がインチキだとわかったが、自分がだまされたと認めたくないため信じ続けてしまう。

 

  • バカにされたくないという気持ちがある。

本当に力のある人や周囲から認められている人は、威張らないしバカにされても気にしない。心に余裕がある。バカにされて怒る人ほど、自分の危うさに気づいている。

 

ノート4:即断即決しない考え方

・ビジネスでは即断即決が素晴らしいと評価されているが、理論よりも感情で決めてしまう場合、時間が経って得策でないことがわかったり、急に冷めてしまったりする。

・考える時間を与えることで、感情や気分に流されず、色んな視点が見つかる。

・感情に任せて、相手に答えを迫ることも控えるべき。

 

私には圧倒的に認知的成熟度が足りない。自分の主張以外に正論はない。喧嘩になるとそう思ってしまう。こうして振り返ってみて、またやってしまったと思うことはあっても、修羅場ではそんな感情は皆無だ。いかに相手をねじ伏せて、激情させるか、そのことしか頭にないのである。テレビの討論番組を見ていて、大の大人が主張の対立で罵り合っている姿を見ると、イタい。これが自分の喧嘩している姿かと思うと、ますます自分がイタい。

 

認知的成熟度というのは、言いかえれば教養であろう。教養とは、自分の考え以外の考えが成り立ちうることを知ることだと誰かが言っていた。別の意見の正しさはともかく、そう考える相手がいるという事を理解しなければならない。自分にとっては、洗濯物の干し方なんて、乾けばいいのだが、妻にとってみれば、干し方ほど大事なことはないそうだ。その時点で、「わかった」と受け入れればよい。なのに、「別に天気いいんだから乾くって」はNGだ。火に油を注ぐ発言だ。

 

まずは、喧嘩になる手前で、相手の主張をいったん受け入れる訓練をしよう。